日蓮聖人と近代文学
日蓮聖人と近代文学
にちれんしょうにんときんだいぶんがく
近代において日蓮聖人は実に数多くの人々によって語られてきた。
日蓮宗僧侶や日蓮聖人の信奉者および仏教の研究者はもとより思想家・文学者・キリスト者に至るまでの人々が、日蓮聖人とあいまみえ種々な論及を試み、多彩な日蓮聖人観を提示した。
既に江戸時代よりこのかた、現証利益をもたらす「祖師」としての日蓮聖人像が定着し、この「祖師日蓮」を骨格としながら、超人的な日蓮、排他的で闘争的な日蓮、国家主義的な日蓮等の見方がなされてきた。
他方では、法華経の行者であり仏使上行菩薩としての日蓮の信仰者像や救国・救世の予言者像も提唱され、更に日蓮聖人の人間性や精神の内奥を掘下げることによって人間日蓮を捉え直す試みもなされている。
日蓮聖人に関する作品は、評伝・小説・戯曲・詩・随筆・音曲等多様な分野にわたっており、とりわけ日蓮聖人認識の大衆的普及と日蓮聖人像構築のうえで、文芸の果した役割は極めて大きかった。
日蓮聖人を作品化し文芸を通して日蓮聖人について語り示そうとした側の姿勢は、およそ二通りに大別できる。
その第一は、日蓮聖人に参入し鑽仰・尊敬していく立場から文学的手法を駆使して著作したケースである。
ここでは、文学作品自体が日蓮聖人の真実性を追求する精神的営為として結晶され、日蓮聖人の信仰・人格が人生態度を決定する実践の問題として描き出される。
第二には、自らの文学的立場に基づき素材として日蓮聖人を作品化した場合である。
文学は、芸術体験や文学性を形象していく仮の世界を表現するから、このケースは文学表現の題材として日蓮聖人を対象化しつつ虚構性をそなえて表現する作品として生みだされた。
真実と虚仮、史実と伝承や脚色、信奉と題材化という側面が相互に絡み合いながら近代文学の作品の中で日蓮聖人は多様に描写され、多彩な日蓮聖人観が打出されたといえるのである。
一般的にいって、近代文学は二つの潮流の相互作用によって形成されたと指摘されている。
一つは、経世済民の志を説くが小説化(虚構性)に乏しい「実」の文学である。
もう一つは、虚構性に富むが思想性に欠け人間の原質を捉えることに不足している「虚」の文学である。
前者は近世より歴史、思想、漢詩文等を包含する文学概念に基づき実用性を目的にしてきたものであり、後者はいわゆる戯作文学を中心とする俗文学をさしている。
近代文学は、この両者の分裂・対峙から次第に交流・融合する過程をとりながら成立し、やがて坪内逍遙が『小説神髄』において「人情・世態の模写」を目的とする小説を「最大美術の随一」と提唱するに及んで文学上の一つの画期を迎えることになる。
こうした近代文学形成の過程は、日蓮聖人の文学作品化にも投映されている。
「実」と「虚」の分裂から融合への歩みと並行して「日蓮聖人と近代文学」の成立も、日蓮聖人一代の足跡に対する「真実」性の追求とその虚構性「虚」を通した豊かな日蓮聖人像の形成の二側面を担いつつ、信仰的骨格そのものが提唱されたり、虚構性に比重をおかれたり、あるいは両側面が接近・統合する形をとって文学化されていくのである。
このように、信仰と文学の連関と緊張関係を持ちながら、実と虚の交錯・融合する近代文学の形成過程に位置づけられ、日蓮聖人一代の信仰、教説、人格、生き方、行動について文芸を通して表現・描写され「真実」と「虚構」のいずれかを捉え、また包摂した作品を「日蓮文学」と呼称することが可能である。
近代の仏教文学作品には、倉田百三の『出家とその弟子』に代表されるように、キリスト教の影響を受けながら念仏門とくに親鸞の生き方に傾倒し、青春の悩みや愛欲の煩悩にひそむ生の葛藤を写し出すものが多く、それに比例して仏教の社会性を描く傾向は乏しいきらいがみられる。
これに対して「日蓮文学」の特色は、日蓮聖人の勇気・情熱・忍苦・真理への実践等の信仰的・人間的な強さと苦しみ悩む者にそそぐ深い情愛という優しさの二面を捉えた人格の掘下げを基軸としている。
同時に、真理の敵に対抗し世上の権力と闘って理想の実現をめざした救国の社会的実践がたえず表現されている。
近代の仏教文学において、日蓮聖人一代の信仰と行動を描写した「日蓮文学」によって仏教信仰が学問や文化の領域にとどまらず、社会に生きる人間の実践の問題であることが時代的・歴史的に提示されてきたといえる。
次に近代の「日蓮文学」の歩みについて、その見取図を概観してみよう。
近代の「日蓮文学」は、日蓮宗の在家居士・小川泰堂の幕末・維新期における「自行折伏(じぎようしやくぶく)」の実践に基づく文学的営みに始まる。
泰堂は、日蓮聖人の信仰教説を信仰的にしかも正確に伝えるために『高祖遺文録』三〇巻を校訂し出版した。
次いで日蓮聖人の生涯を社会的にわかりやすく普及することを目的に『日蓮大士真実伝』五巻を出版、「日蓮大士信奉のすすめ」を唱導した。
このうち『日蓮大士真実伝』(慶応三年=一八六七=刊)の主要な特色は第一に「大士御一生の起居動作(たちいふるまい)を、記すべき書」として書き著され「仏門の棟梁・衆生救護の大導師」として日蓮聖人一代の行動を文画一体の「語りもの」として綴った点にある。
第二に信心増進を目的としている。
第三に「婦女童幼(おんなわらべ)」を読者対象に設定し平易化・大衆化を意図した仮名ふり祖師伝として記述され、第四に日蓮聖人に関する「諸先哲の確説」と江戸期に刊行された「諸伝記」、即ち「真実」と「虚」との折衷によって構成され、奇瑞伝承、夢想譚を多く採用している。
第五に日蓮聖人の大慈大悲を「起居動作」によって語ることにより「法華現証(げんしよう)の利益(りやく)」をもたらす「救世の聖者」像を打出し、日蓮聖人の弟子・信徒の流れと名跡霊場を本文中に別記することにより「本化(ほんげ)の聖者・垂迹(すいじやく)の顛末・大法流布(だいほうるふ)の基元」を示している。
等々である。
これらの特色は信仰的面と文学的面との融合を意図した泰堂の姿勢を明示している。
泰堂は大窪天民(詩仏)の娘百二と結婚した医者であり、詩仏・亀田鵬斎ら江戸詩壇を形成する江湖社の漢詩文の文学を継承していた。
他方では、文体・挿絵の一体性や勧善懲悪と奇想に満ちた想像力を核として写実と虚構をとりまぜた通俗平易性を持つ戯作的精神をも吸収していた。
庶民の願望や夢を実現していく現実超克の日蓮大士像は、こうした「真実」と「虚」の統合によって成立していた。
こうして泰堂は「真実伝」の名目のもとに、信仰性と人格を掘下げつつ現証利益の救世主日蓮大士の文学的虚構性の彫刻に成功したのである。
この『日蓮大士真実伝』は、脚本化と芝居上演を始め研究や小説化の土台となったのである。
一方「実の文学」の領域においての転換は、幕末・維新の激動期に封建的秩序を支えてきた朱子学の変質・解体現象として現れていたが、水戸学や佐久間象山の思考方法を一歩進めた吉田松陰の出現によって朱子学の名分は実学として読みかえされ倒幕と統一日本への政治変革のイデオロギーとして転化されるに至った。
松陰の到達した「草莽崛起(そうもうくつき)」の策は北条氏の覇道政治と対決し奮闘しつつ所信を貫いた日蓮聖人の行動から思いつき、日蓮聖人を草莽崛起の先駆者とし自ら崛起の人として確信していった社会的自覚と実践であった。
その軌跡は松陰のわずかの言辞に残されているだけとはいえ、日蓮聖人の「真実」を鋭く把握し「真実の文学」の思想性を瞬時に提示したものということができる。
明治期になると、新政府のとった神仏分離の政策とこれに伴う廃仏毀釈の嵐に直面して、仏教界は専ら教団防衛を余儀なくされ、その活動も新政府の方針にそったものに限定された。
この事態から脱皮して宗団内の整備を固め、仏教の啓蒙を図り、信仰の内面的深化と社会的実践に取組むようになったのはおよそ明治二〇年代になってからである。
しかし、江戸期以来庶民心情のうちに定着してきた日蓮聖人への鑽仰と「日蓮文学」の足跡が中断されたとはいえない。
明治期は日蓮聖人が舞台で演ぜられる「日蓮記」の時代でもあった。
河竹黙阿弥の『花椛高祖御伝記』が市村座で上演されたのは明治二年(一八六九)一〇月のことである。
その重厚で写実を重んじた日蓮聖人の姿は、激動の世にも不動の「日蓮文学」を象徴するかのようであり、黙阿弥がこの脚本を維新期最初の時代物として書いたという意味でも重視されるべき作品と考えてよい。
泰堂の『日蓮大士真実伝』はやがて次々に出版上演されてゆくが、この作品を土台に大阪の狂言作者・勝諺蔵が明治一四年『日蓮大菩薩真実伝』を執筆上演、同二七年には福地桜痴の『日蓮記』が上演され、「虚」の部分が増幅されながら「希世の英雄」「仏門の一大豪傑」としての「日蓮大菩薩」が高唱されていった。
同三七年に書かれ上演された森鴎外の『日蓮聖人辻説法』は、当時「一篇の詩か戦争劇か」と論評されたもので、鴎外は日露戦争に従軍する自身の立場にたって、蒙古襲来に奮起せよと出征をうながす日蓮聖人を描いている。
これは「虚」によって「実用」をめざす傾向を示すものであった。
日蓮聖人の「真実」に肉迫する作品は、主として評伝として発表された。
キリスト者・内村鑑三の『日蓮上人』『日蓮上人を論ず』(明治二七年)は、独立伝道の先駆者であり「仏陀の特別の使者」であった日蓮聖人の人格を根本のところで認識していた代表的作品であった。
特に誠実・忍耐・勇気・確信・先見性・経典崇拝主義を称賛し、純粋なる日本的宗教家であり世界に伍し国民のバックボーンたる巨人と指摘することによって、思想性・信仰性をそなえた〈日蓮文学〉を構築した。
キリスト教関係では、植村正久の「日蓮上人」(明治二七年)、木下尚江の『日蓮論』(明治四三年)がそれぞれ日蓮聖人批判の評論を客観的に試みているが、その後内村鑑三の精神を継承する矢内原忠雄が昭和一五年(一九四〇)に評論『日蓮』を発表、真理を熱愛した真の愛国者として日蓮聖人を語り信仰性と人間性の両面を深く省察してキリスト教の日蓮聖人観の深さを証明した。
明治期における文学者の評伝として早いものに、幸田露伴の『日蓮上人』(明治二七年)がある。
露伴はすでにこれ以前に『風流仏』『五重塔』を書いて仏教的境地を示し、悟りと美の連環を追求しているが、これに自らが日蓮宗を宗旨とする家に属す縁もあって、天下の反抗をものとせず所信を貫き世を従えた堅忍不抜の大才大器と述べて日蓮聖人の信念を二〇章の伝記として綴った。
日蓮聖人の人格を当時の世情に提示する〈実〉の面は、村上浪六の評伝『日蓮』(明治四一年)にも意図されている。
浪六は軽佻浮薄の人心を鼓舞することを念頭に、日蓮聖人一代の奮闘記を書き、熱涙熱血の多情漢である「日蓮の雄偉壮烈」を実証的に描いた。
明治三〇年代、一種の仏教復興の時代を迎えた。
仏教清徒同志会を中心とする新仏教運動、清沢満之の精神主義、田中智学の純正日蓮主義の動きが漸く活発化し始め、文学者の中では高山樗牛が旗手となって日蓮聖人鑽仰を鼓吹し仏教界の現状批判を展開した。
樗牛は、明治三四-三五年にかけての晩年の一時期に日蓮聖人崇拝の念を社会的に高調し「日蓮文学」の地位を高めた。
明治二〇年代前半、仏教文学は浪漫主義に立つ嵯峨の屋おむろ『流転』等があり、その後露伴の仏教的悟道精神および泉鏡花の『高野聖』『髯題目』にみられる夢幻美の世界についての作品等によって成立し、三〇年代に入って樗牛が超人主義的な英雄崇拝精神に結びついた日蓮聖人鑽仰文学を開拓するに至ったのである。
この動向は親鸞を中心とする仏教者や開祖の評伝・歴史小説化へと続き、生活に土着する仏教思想が自然主義文学や私小説に投影されていく道に連結することになる。
この点からいっても樗牛の「日蓮文学」の近代文学史上の位置は重視されてよい。
樗牛は、泰堂の信仰と文学上の業績を継承し、智学より研究姿勢と方法に関する指導助言をうけつつ、日蓮聖人研究に没頭『日蓮上人とは如何なる人ぞ』(明治三五年四月)、『日蓮上人と日本国』(同年六月)等多数の評論を執筆、次々と発表した。
その骨格は法華経の行者・上行菩薩論、法華経の予言の証明体現者論、真理のための国家をめざした真正の愛国者論にあり、日蓮聖人の宗教的使命と人格の偉大さや文章のすばらしさを叫び、しかも「日蓮研究会」を提唱して追懐を力に変えていく道を提唱したのである。
日蓮聖人の「真実」を追究した樗牛の足跡は「日蓮文学」のみならず近代文学史上におけるエポックを意味していた。
こうした「日蓮文学」における偉人評伝の面は、池元呦鹿庵『英雄僧日蓮』(明治三六年)にも見られ、山崎紫紅の新体詩『日蓮上人』(明治三六年)でも〈巨人日蓮〉への讃歌としてうたわれた。
大正期に入っても、須藤南翠の評伝『日蓮聖人』(大正三年=一九一四)は、「日蓮を以て有史以来の第一人者」と示し、樗牛の友人笹川臨風の評伝小説『日蓮聖人』(大正四年)もまた日蓮主義鼓吹を目的に「宗教界の模範的革命児」として日蓮聖人の心事と人格を主張している。
この潮流は、樗牛の志を継承した姉崎正治の本格的な評伝『法華経の行者日蓮』(大正五年)が「懺悔滅罪の行者・本仏の魂を活現する聖者」として日蓮聖人の生涯を体系化したことによって、日蓮聖人の「真実」を源にさかのぼって捉え、その人格と教えに肉迫する作品を成立させるに至った。
大正期の戯曲には、額田六福の『出陣』(大正五年)が上演され、蒙古退治に出陣する信徒を励ます日蓮聖人を描いて「虚」の面をとらえた。
特に重視すべき脚本に、坪内逍遙の『法難』(大正八年)がある。
逍遙はこの作品を超人化した夢幻劇や宗教味が不足して性格劇の特色を持たぬ従来の日蓮劇批判に立って「日蓮の悲劇的性格」を詩材として宗教劇としての日蓮劇をつくるという立場から執筆した。
『法難』は悲劇中心の史劇改良論の具体化を意図した脚本であると共に、日蓮聖人の「破邪と顕正とを兼ねた予言者」「破壊的であった上に建設的な宗祖」の革新的な社会的態度に悲劇的性格を見出し、しかも小松原法難がそのまま詩材としての悲劇的要素を示すところから脚色された、という特質をそなえていた。
小説では、半井桃水が大正五年一月-六月まで一三三回にわたって朝日新聞に『日蓮』を連載し、伝承をおりまぜて日蓮聖人の高徳な一生を綴っている。
また、中里介山が『大菩薩峠』の「他生の巻」「安房の国」で日蓮聖人にふれ「泥土の中から人間を光らせた巨人」と述べ、また『清澄に帰れる日蓮』(大正一一年)では一代を敵として立教開宗の戦端を開いた青年期の日蓮聖人を評伝風の小説として書いた。
更に藤井真澄の小説『超人日蓮』(大正一二年)も第一の智者を求めた青春時代の「超人」性を描き、本山荻舟は小説『日蓮』(大正一四年)において「大人格者の面影」を描写した。
明治末・大正期より昭和前半までの時期、田中智学によって推進されていた国性文芸活動・芸術伝道の影響を抜きにしては「日蓮文学」を語りえない。
更に、詩と童話に法華経の精神を結晶させ「法華文学」を創作した宮沢賢治の存在はきわめて大きい。
「まことの信仰」のうちに科学も芸術も包みこみ、農村の現実を直視しつつ銀河系全体をひとりのじぶんと感じ、荘大な法華経の救済世界を「法華文学」として構想し理想の国土と人間の幸福の実現に献身した「デクノボウ」の実践は、信仰と文学と科学との融合・統一の世界を見事に示すものであった。
この賢治の世界は、田中智学の著作を経て日蓮聖人に直結する信仰態度を背景にしたものであり、「世界唯一の大導師」とも「末法の大導師絶対真理の法体日蓮大聖人」とも賛称する日蓮聖人への帰衣に支えられたものであった。
末法救主上行菩薩・日蓮聖人のお思召に随順し、その大慈悲を伝える営みは「法華文学」創作の種となっていた。
そこから法華経信仰と共に日蓮聖人の生涯を体系的にうたい「末法救護の大悲心」を語った「法華堂建立勧進文」を始めとする日蓮聖人への讃歌もうたわれ、南無妙法蓮華経の唱題も「十界成仏」や「人間の世界の修羅の成仏」に対する願いの実現も、あるいは代受苦を伴った捨身の実践も生み出されたのである。
昭和期に入ると、日蓮聖人の精神的内奥を捉え、「人間日蓮」を前面に打出す傾向が次第に生まれ始めた。
岡本かの子は随想『散華抄』所収の「感想後篇」(昭和三年=一九二八)で受難を生命浄化の法則として認識した。
この姿勢はやがて亀井勝一郎の『中世の生死と宗教観』(昭和三八年)において日蓮の狂信独善と見える背後には法華経の身証こそ受難であるという信仰の秘密があったと指摘されることによって一段と深められてゆく。
戯曲では、中村吉蔵の『予言者日蓮』(昭和四年)は宗教的偉才が時代に働きかけた情熱・意志・信仰の強さを示そうとした。
武者小路実篤は小説『日蓮と千日尼』のほか戯曲『日蓮』『佐渡の日蓮』(昭和五年)を発表、真理に対する勇気と人間的情愛を描き、本当の宗教家、精神の勝利者としての姿をモチーフとして写し出した。
小説の分野で特筆すべき作品は、昭和五年に刊行された大佛次郎の『日蓮』である。
これは日蓮聖人の一生を本格的に小説化した最初の作品であり、歴史と信仰に生きる人間像を鮮明に表現し、法華経の魂を燃焼させる「男の魂」の息吹きを捉えた。
日中戦争下には、前述のように矢内原忠雄が『日蓮』を発表したが、この他倉田百三も『学生と先哲―予言僧日蓮』を執筆して、同時代への愛に生き憂国の信念から歴史の真理を主張した「時代の予言者」としての日蓮聖人論を示した。
当時、日蓮聖人は忠君愛国の国家主義者とされていく傾向が強烈となっていたが、しかし短絡した国家主義者化とは違って時代の救済者として理解していく立場から、三上於菟吉は小説『日蓮』(昭和一六年)を書き、民衆の苦しみを受けて立つ勇気ある傑僧の姿を表現しようとした。
尾崎士郎の小説『日蓮』(昭和一七年)は時代状況を反映し、政治の建て直しをめざす憂国の念と国難打開への精神力を獲得するために「英雄日蓮の幻」を見ようとした。
戦後、親鸞を通して個人の精神的内面の深化や実存に眼を向ける文学作品が生れたのに比例して、英雄崇拝と国家主義的傾向に流れた「日蓮文学」は低迷と後退を余儀なくされた。
しかし、作品が生れなかったわけではない。
山岡荘八は『小説日蓮』(昭和二五年)を書き秩序整然たる地上楽土を建設する仏教の革命者・日蓮を描き、沙羅双樹は小説『人間日蓮』(昭和二八年)の中で救国救世の悲願に生きる確信の人として日蓮聖人を捉え直そうとした。
川口松太郎は、小説『日蓮』を週刊サンケイに連載、日蓮聖人の生活と民衆教化に理想を見出し「人間の情の弱さと仏道の厳しさ」とを共存させ、権力と闘って法華経をひろめた人情美を浮き彫りにした。
更に忘れてならない作品に、佐野前光の作詞に宮城道雄が作曲した交声曲『日蓮』がある。
これは宮城道雄の代表作であると同時に交声曲形式による日蓮聖人讃歌の名曲として不動の地位を占めるものである。
近代における「日蓮文学」は、日蓮聖人の信仰性と生き方の本質を文学的に掘下げる「真実」の文学と、小説性や芸術性を持ちながら日蓮聖人の人格と人間性を豊かに脚色する「虚」の文学との接近・交錯・分裂・融合の歩みをつみ重ねてきたといえよう。
「日蓮聖人と近代文学」は、信仰と文学との緊張関係を通して芸術性を担った日蓮聖人像の形象化を追求し、同時に日蓮聖人の真実性をより豊饒に生き生きと描き出す鑽仰の文学として結晶されるべき命題を提示しているのである。
《石川康明『日蓮と近代文学者たち』、石川教張(康明)『文学作品に表われた日蓮聖人』》(石川教張)