代受苦
代受苦
だいじゅく
他人の苦しみを代って受けること。
他人の苦を自己の苦として受けとめる仏・菩薩の慈悲行。
『涅槃経』には「一切衆生の異の苦を受くるは悉くこれ如来一人の苦なり」と説かれている。
日蓮聖人は『祈祷鈔』に「諸大菩薩は本より大悲代受苦の誓ひ深し」(定六七六頁)と述べ、更に『諫暁八幡抄』には前掲『涅槃経』の文を引いて後に「日蓮云く、一切衆生の同一の苦は悉くこれ日蓮一人の苦と申べし」(定一八四七頁)と説示されている。
聖人は一切衆生が謗法によって地獄に堕落する苦しみを自己の苦と受けとめられたのである。
そこに日本国の謗法を糺さんとする不惜身命の法華経弘通があったといえよう。
このような聖人の慈悲行は釈尊の命を蒙った末法の使としての自覚によるもので、当然諸難の興起を伴うものであった。
法華経弘通が諸難と共にあるゆえに、法華経の修行は値難を媒介として真実の証を得る。
聖人は『涅槃経』所説の「異の苦」を「同一の苦」と受けとめ、一切衆生の救済に身命を捧げたのである。
『開目抄』には「経文に我が身普合せり。御勘気をかほればいよいよ悦びをますべし。例せば小乗の菩薩の未断惑なるが願兼於業と申して、つくりたくなき罪なれども、父母等の地獄に堕て大苦をうくるを見て、かたのごとく其の業を造て、願て地獄に堕て苦に同じ、苦に代わるを悦びとするがごとし。此も又かくのごとし。当時の責はたうべくもなけれども、未来の悪道を脱すらんとをもえば悦ぶなり」(定五六〇-一頁)と述べられている。
代受苦は衆生救済に身命をかける菩薩の行である。
法華経に身命を捧げることは「日本国の一切衆生の盲目をひら」(『報恩抄』定一二四八頁)き、「無間地獄の道をふさ」ぐことにほかならない。そこに父母の救済はもとより、一切衆生の救済が実現する。
このような法華経の救いを自己に問うところに聖人の三大誓願があり、そのことが聖人にとって真実に恩に報いることの意味でもあったのである。
《『遺文辞典』教学篇「大悲代受苦(だいひだいじゅく)」「異苦(いのく)」の項、同「慈悲」の項の(2)、『日蓮辞典』「代受苦」の項》