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吉田松陰

よしだしょういん #1040

吉田松陰

よしだしょういん

(一八三〇-五九)思想
勤王討幕による救の大義を鼓吹し統一日本の樹立をめざした志士の先覚者。
松下村塾にて学問をじ誠の志を説いて人材を育成した育者。
長州(山口県)萩の松本村生れ。
三〇歳にて江戸伝馬町で斬首された。
教については、信仰するには及ばないが人にさからってまでそしることはない、仏法の信仰はよいが仏法に惑わされてはいけないとの態をとった。
九州遊学の、発話障害者の弟・敏三郎のために熊本の清正公(本妙寺)に詣でて平癒を祈願したことがあり、江戸伝馬町の獄に入牢していた折には日蓮宗僧日命より君・親・師・一切衆生の四恩説を聞き、特に衆生の恩を「異端(いたん)の見(けん)」と受けとめ衆生に対する報恩を重視して「民の素望(そぼう)に協(かな)ふ」実践をめざした。
また安政六年(一八五九)四月、妹千代から観世音菩薩への信仰を勧められたことに対し、観世音菩薩普門品解を自らの体にひきつけて書き送った。
観音力は人に信ずる気持を起させるためのものであり、一心にありがたいと思う心にさせるところにあると述べ、更に人は一心不乱の心境になればどんな苦難にあっても気にかけず、縄も牢屋も打首の刑も平気になれると記した。
また法華経は「大へんおもしろい」と述べ「衆生を救うために、かりに設けた手段・方便」から観世音菩薩をこしらえて人に信心を起させるのだと指摘した。
更に大乗の教えは「出世法の大事」を説くものであるといい、それは人を彼岸に連れていく「済世」の道であり、釈迦等のえが今日まで生きているのは釈迦等が今なお死んでいないことを示すものであると語った。
更に松陰は『孟箚記』の中で日蓮聖人にも言及し、「夫れ衆生済度の為めの草鞋掛の苦労は親鸞猶能く憚らず、外道摂服の為めの斬首遠流は日蓮能く畏れず」とも述べている。
安政六年、松陰はついに死を覚悟して討幕による日本の独立をめざしを創りだす民衆思想としての実践を唱えた。
幕府はもとより朝廷や藩の力ではなく名もなき庶民が決起することによって新しい代を創造する道を明らかにし、「草莽崛起(そうもうくつき)」と称する救の大策を一層強調した。
自ら「崛起の人」であるといい、在野の庶民が大志をかかげて諫言と討幕の運動に立上る自覚と実践を説いた。
同年四月の門人・野村和作宛の手紙は、入牢中における草莽崛起の究極的確信が日蓮聖人との出会いによってもたらされた実を明かしている。
それは次のように記されている。
「この草莽崛起の策を思いついた由は、日蓮は鎌倉幕府の威勢の盛んなときに、よくその教を天下にひろめたが、幕府の執権北条時頼はその権力をもってしても日蓮を制することはできなかったというところにある。苦労に苦労を重ねながら事を行うのは大いに尊信すべきことなのだ。肝心なのはここである」(「「余が策の鼻を云ふが、日蓮鎌倉の盛時に當りて能く其の道天下に弘む。北條時頼、彼の髠〈こん/日蓮聖人〉を制すること能はず。實行刻苦尊信すべし、爰(ここ)ぢや爰ぢや」/野村和作宛書簡)。
これは北条氏による覇道政治と対決し、いくたの苦難に直面しながらも勇猛心を奮い起し無二の志を貫いて法華経を弘した日蓮聖人への共感を示したものである。
に日蓮聖人を草莽崛起の先駆者とみなし、日蓮聖人の足跡から草莽崛起の策を思いつき確信していった精神の軌跡をも意味している。
野山獄に身をおいた人生最後の年に日蓮聖人に邂逅し、ついに「草莽崛起の人」としての自覚に到達し、大いなる志の種を蒔くことによって永遠なる命を留魂しようとした点を示すものである。
《茂田井亨「吉田松陰と日蓮宗」『法華』三巻一〇号、石川教張『文学作品に表われた日蓮聖人』、『国史大辞典』一四巻「吉田松陰」の項

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