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本宗修法の歴史(i)

ほんしゅうしゅほうのれきし #3386

本宗修法の歴史(i)

ほんしゅうしゅほうのれきし

〔本宗上古の情勢〕日蓮聖人の遺命をうけて京都に開教した日像は、永仁二年(一二九四)四月入洛して以来着々と法陣を拡張したが、他宗徒の讒謗、迫害をうけ、徳治二年(一三〇七)五月院宣によって土佐多に流され、翌々年の延慶二年(一三〇九)八月許された。
これを始めとし、三流罪、及び赦免されるという法難、いわゆる「三黜三赦(さんちゆつさんしや)の法難」を具さになめたが、そのたびごとに教勢をのばし、第三回目の赦免並びに法華宗弘通の勅許を得た元亨元年(一三二一)一一月には、御溝側、今小路に地を賜わり妙顕寺を開いている。
そしてこれより一二年の後の元弘三年(一三三三)五月、後醍醐天皇が隠岐より逃れて伯耆に潜まれたとき、大塔宮護良親王は倒幕の成功と天皇の京都還幸を妙顕寺に立願されたが、その願文に「妙顕寺御立願」、「右当寺は霊験無双の本尊利生方便の聖跡なり」(『龍華秘書』)としるされている。
ち、これによって妙顕寺の名が洛の内外に知られており、この御本尊利生のあらたかなとして上下の尊信を集めていたことがわかる。
かくして建武の新政なるや、妙顕寺は勅願寺祈願寺となるが、日像の資・大覚は延文三年(一三五八)夏、勅命によって雨を祈り、慈雨・甘雨の功験著しく叡感あって、聖人に大菩薩号、日朗・日像に菩薩号、自身は大僧正に任ぜられたことを自記している(同書)。
また日像の書状によれば、妙顕寺の名声を慕って上洛弘通した各門流の上首たちは、それぞれ勅願所、公家武家の祈願寺たらんとして盛んな運動を試みたようで、朝廷・幕府はその申請受付の煩に耐えず、妙顕寺を窓口としてその挙状、申状がなければ受付けぬこととした。
これによって、妙顕寺は名実共に京都法華宗の頭領となったのである(前掲書)。
こうした実より見れば、京都における宗門の宣伝活動は、折状、宗論による法華宗の教義の宣布と相まち、祈祷による現世効験、即ち戦火の絶間のない中で、武運長久、領国の安全、凶徒の降伏や、商業、交易、五穀豊饒と、現世の安穏を祈り後世の安泰を願う武や町民、庶民の祈願をいれ、これによって線を拡げたことが知られる。
また関東にあって、下総を中心に、奥州、鎮西(肥前)にまで法域を拡げた中山門流を見るに、これもまた祈祷による布教の実績が見られる。
富木常忍が十羅刹女・日天子信仰に厚かったことは聖人の御書に明らかであるが、常忍の書状にも十羅刹女信仰を勧めているのが見られる。
常忍の後を日高が受け、その後を日祐が継ぐのであるが、十羅刹女信仰はそのまま受継がれていると共に、大檀那千葉氏の氏神、守護神である妙見菩薩信仰が入り、かくして下総、肥前両国にわたって一町歩、二町歩あるいは三〇町歩、また諸所の地が十羅刹女、妙見菩薩に神田として寄進されるようになる。
これは令法久住広宣流布の御祈祷のため、現世安穏、後生菩提のため、あるいは所願成就のためであって、これよりのち中山の歴代住持が修すべき先例、先規の行法となっている。
そしてこの祈祷、修法は各門流の本寺末寺を通じ所縁に従って行われたようである。

三十番神信仰〕本宗に神道の祈祷が導入されたのは三十番神信仰が日像によって取入れられたことによる。
日蓮聖人は天照・八幡二神を日本の神祇の体の神とし、山王等三〇〇〇余社の神々を用の顕現と見ておられるが、聖人の当時、日本国の守護神として天照・八幡などの三十番神があって昼夜わが国を見守るという番神信仰のあったことは、『古今著聞集』巻一、『保元物語』上によって明らかであるが、これを日蓮宗義の中に体系づけたのが日像で、その曼荼羅(大阪薬王寺蔵)には、天照・八幡・気比・赤山・聖真子・松尾・客人・八王子などの諸神を勧請し、あるいは「三十番神神躰」として「十角基三重、笠モ十角」の黒塗の三尺ばかりの塔が像師御作として伝え(『龍華秘書』)られている。
これによって、関西にある根強い神祇信仰が法華経守護、行者擁護の善神として受容、融合され、番神信仰は像門を中心として関西に成立した。
関東方面では、中山門流において日高の時に三十番神を信仰したようで、日高には三十番神の神名を記した軸物のあることが見え、日祐の時には三十番神神田三反のあることが延文六年三月日祐の譲状に見えることより番神堂が祭祀されていることがわかる。
中山の番神信仰は、日像の受入れ方とは違い当時の一般番神信仰を受継いだものであったであろうが、同じ法華経によって開会されたことは間違いないし、同時に、中山門流の京都進出によって自然に像門の番神信仰が吸収されたものと考えられる。
しかも、室町中期には神祇大副であり、神道長上と称せられた吉田兼倶より日蓮宗の三十番神は日蓮聖人が吉田家より相伝をうけた神道正的の勧請であると認められたから、宗門各門流はこれによって統一的番神信仰を確立したのである。
かくして三十番神は日蓮宗独特の祭神と見なされるようになり、『雍州府志』に、「日蓮宗寺院に悉くこれを勧請す、日蓮上人の時、伊勢・八幡の二神を勧請して法華守護神となし、日像上人の時三十社の神を勧請して一月三十日のうち一日ごとに守護神をおく」というに至らしめたのである。

〔朝夕の勤経〕さて日々の朝夕の勤行について考えてみると、日蓮聖人の行儀について『元祖化導記』は「或記」をあげ、早朝法華経一巻、一〇日に一〇巻、そのあと日天の前に方便品、寿量品、宝塔品、勧持品、涌出品、神力品、これで二時(約四時間)、夕方に方便品寿量品を読まれたという。
帝都に開した日像とその一門の勤行は大覚の自記によると、朝は序品退座一面まで、方便品十如是三反、欲令衆生、寿量品一巻経、陀羅尼品、普賢之、題目。
日中は方便品一仏乗まで、その他は同前、夕方は方便品十如是三反、その外は同前、以上の所作が毎日の勤めで、これが四海帰妙、天下安全、現安後善の祈願になっている。
また公武のための特別祈願として宝祚長久の祈願が常修せられているが、とくに大覚の、延文二年八月より翌三年七月まで一ヵ年をかけ、都鄙の末寺勧進して妙経三〇〇〇万部の読誦会を成満し、妙顕寺はその功によって「四海唱導」の称を得ている。
こうして四海泰平、下安全、凶徒退治、五穀豊饒の祈祷を修することが当時の京都及び地方の寺院のつとめであり、この効験によって説法弘通の助証としまた勧信、悔の手段としたのである。

〔『祈祷経』について〕祈祷経は説法者の弘通円満、現安後善を祈ると共に、不惜身命の道念を培い三障四を降伏する弘経者にとって最要の秘典とされたようである。
日像は上洛の祈祷経を随身したが、延慶年中京都追却の時、即ち徳治二年より延慶二年の間に紛失したので、直ちに鎌倉の日朗のもとに報じ、恐らく日朗の書写したであろう祈祷経を送らせている。
また三備に弘通し備前法華のもとを開いた大覚は、日像が最初に所持した祈祷経を写し持っていることを自記している(『龍華秘書』)。
日什の直弟で日仁・日実は、応永五年(一三九八)将軍義持に諫暁を企てて言語に絶する種々の拷問を加えられたが、両人は奄々たる気息の中でよくこれに耐え唱題を絶たなかったため、将軍も心をうたれて遂に拷問を止めて釈放した。
このとき日仁・日実の第二陣諫暁の頭領として妙満寺に待機していた日運は、応永一五年日仁と共に義持に諫暁しているが、当時の諸師たちは身を捨てて仏法に殉ぜんとし、その烈々たる気魄は日什門家の面目をあげ日蓮宗の宗風を高揚させたのであり、この日運が応永三一年に書写した祈祷経が千葉県小関妙覚寺に格護されている。
死身弘法、化導成弁を願った当の諸師はいずれも本経を奉持していたに違いない。
かの冠鐺日親には、文安六年(一四四九)と文明六年(一四七四)に書写した祈祷経二本が京都本法寺に伝承され、本隆寺派祖常不軽院日真も文亀三年(一五〇三)より大永六年(一五二六)に至る二〇余年のに七本を写し、この内、本隆寺に四本、兵庫県たつの本行寺に一本、その他に二本が伝承格護されている。
いま室町期の著名な弘通の先師たちのうち祈祷経書写本の現存するものの一部を紹介したが、祈祷経が「末法一乗行者息災延命、所願成就」と名づけられ、聖人自ら、毎日この経を読んで仏に祈願していたので「種々の大難に遭うと雖も法華経の功力釈尊金言深重なる故に今まで相違なく」(定六八九頁)すごして来た、と示されている。
末葉の門下にとってこれ以上の強い勧めはないであろう。
諸先師が本経読誦の功により所願成就、息災延命を祈誓したことは疑いない。

〔読誦行〕祈祷修法に読誦行は不可欠の行法である。
読誦を多く重ねることによって、仏力、経力の加被を増し信念力を倍増しようとすることは昔から多くの人の試みたことであるが、妙顕寺ではさきに述べた如く、大覚の時、三〇〇〇万部読誦という大業を一年がかりで成就し、これを先例として将軍義持は妙顕寺月明に命じ、応永三〇年一〇月、三〇〇〇万部読誦会を行い朝内安全武運長久を祈らしめている。
しかし一般的には妙経読誦の部数を認めた目録いわゆる「巻数」を奉つるのが先例定規で、中には観音経を転読していることもある。
関東において、中山では一〇世日俒が読誦行を重視したようで、妙経一〇〇〇部読誦、唱題一〇〇〇部を成就した際に授与した曼荼羅がのこされている。
中山法華経寺史料によると、元亀四年(一五七三)五月一九日、同年五月二四日、同年八月朔日付のもの、正三年(一五七五)二月二四日、正五年五月二六日付のものがある。
また一〇〇〇部読誦について、これに参加して成満した僧俗の一結衆の名が書かれているが、元亀四年五月二四日の一結衆は、僧二、俗一七計一九名、同年八月朔日のものは、僧一〇、俗二五計三五名、また別に正三年三月二三日付のものには、首題一〇〇〇部を僧五、俗二六計三一名をもって成就したことを記している。
これは多量の転読にはある程度の人が参加して転読の数を分担し、その成満した功徳をそれぞれの人が自身のものとすることができることを教えて勧進修行させたものであろう。
また文五年(一五三六)の天文法難によって、京都諸山は悉く焼き払われ僧は追放となつて洛中に居住を禁ぜられた。
諸本山は殆どが泉州堺に逃れ雌伏し、帰洛の一日も早からんことを熱望して種々に祈祷を重ねた。
両山歴譜』によれば、このとき千巻陀羅尼読誦の行法を修したという。
これがのち日蓮宗で盛んに行われた千巻陀羅尼修法の始めであると伝えている。
あるいは、妙覚寺日奥が不受不施公許を願い、元和五年(一六一九)に御祈祷経一〇〇巻、陀羅尼品一万巻を読誦し、元和九年一〇月一三日公許の折紙を得るや、直ちに報恩のため陀羅尼品一万五〇〇〇巻、御祈祷経一〇〇巻の読誦を発願し、翌年の寛永元年(一六二四)これを成満し更に八月二一日より二六日までに御祈祷経一〇一巻を読誦している。
以上の例をもって見るに読誦行がいかに重んぜられたかが知られよう。

祈祷相伝について〕次に祈祷修法の先師の相伝について考えて見るに日像には『祈祷経之事』という祈祷経に関する心得が述べられ、身延日朝の著述目録には『祈祷相伝』の名が見える。
祈祷相伝』の内容については不明であるが、『阿娑縛抄』や『覚禅抄』等に見える一般的な修法、儀軌のような内容を抄出したものか、あるいは身延で行われた祈祷の切紙、口伝を集めたものではなかったかと思われる。
その他には祈祷についての相伝は見られないが、少し代を下って二二世心性院日遠は『祈祷瓶水抄』を作って祈祷経の心得・註・読方を相伝したが、本抄は後世身延山積善房流、中山遠寿院流等の深秘の伝書として重んぜられ、積善房流では一〇〇〇日成満者にして始めて瓶水抄と祈祷経読方並口決が相伝されるまでになっている。
また中山では前に述べた日俒は天正一〇年三月、中山で修行した弟子に免状を与え「末法応時大導師法華如説之行者、日蓮聖人御末流免許日松、七分全得曼荼羅也」と記しており、このような「如説行者、日蓮聖人御末流」に授与したものが他に二幅伝承されている(『中山法華経寺史料』)。
日俒が授与した相伝の内容については、天正一九年正月「門弟中之可申渡之条々」に稲荷の便狐、侘立祈念、子消御符、盗賊祈念等について注意が加えられているのを見ると、このような祈祷が切紙とか口決によって相伝されていたのではないか。
このような祈願は当然あり得べき祈祷の行法・対象となり得ることより、そして、このような修行者への伝授は日俒より始まるという中山の所伝は真を伝えるものではなかろうか。

祈祷法の諸流〕江戸初期には身延、中山に勝れた祈祷者が現れ、これらに師事し、追随する人たちによって祈祷相伝の流派が生じた。
身延積善房一〇世仙寿院日閑は徳高智行を称せられた人であるが、七面山において一百日精修練行し、成満の日、七面明神の宝前の花瓶の一枝が飛来した夢想を得て一枝を感得した。
この神授の一枝をもって病苦の人を加持祈祷すれば速やかに平癒し、所願また満足せぬものはなかったという。
この積房は日伝大徳を開祖、心性日遠を二祖とするが、日閑の時盛名大いにあがり積房流という流派をなすに至ったので、日閑をもって積房流中興の祖と仰いでいる。
日閑は慶長六年(一六〇一)七月二四日、九八歳をもって入寂したと『別頭統紀』は伝えるが、この流には祈祷の名匠が輩出しており、中でも一四代満行院日順(元禄一四年=(一七〇一)=寂)は雲切満行院と呼ばれた名匠、また身延三一世一円院日脱の弟子一道院日法は京都五条堀川の本満寺によって鴨川に一千日の荒行を修し洛内外の人々に随喜渇仰されたが、霊元上皇のために祈願をこらして『経王祈祷処』の勅願を拝領し、「大験者一道院日法上人」の号を得、祈祷の功験を下に広めた。
中山では二四世真如院日逮の時、経王院日詳は円立坊をたて祈祷相伝道場としたが、三世遠寿院日久が出て行を修め、元禄五年身延にのぼって積善房流の相伝をうけ、前述の満行院日順より『祈祷瓶水抄』の伝授をうけた。
日久は身延に登山すること前後七回に及んだといい、中山相伝書を身延におくり、身延の相伝書を書写して両山の祈祷相伝を交流させている。
享保一二年(一七二七)日久は六五歳をもって入寂したが、その弟子遠寿院日行は四世となり円立を改めて遠寿院と号した。
また二五世行嶽院日長の弟子智泉院日住は、正保元年(一六四四)智泉院を開創し、祈祷の明師として崇敬され、その相承は智泉院流として一派をなし、遠寿院日久晩年のころは遠寿院流と共に「中山両流」として知られ、「中山験者」と称揚された。
身延中山の両派と共に別に唯観流祈祷法がある。
開祖唯観日勇は寛永一六年(一六三九)の生れで、長じて野呂檀林に学び、妙見大士に精誠丹祈をこらして如意感得した。
延宝八年(一六八〇)一百日の苦修練行を終えて祈祷修法の極意を自得したが、この法は京都本瑞寺の忍辱鎧日栄に伝えられ唯観流として京都にその名を高らしめた。
しかし法資を得なかったのであろうか、その後を知らない。

〔修行の行規〕祈祷修法の修行に一百日加行あるいは一千日加行とかいわれるが、一千日加行は一百日加行をもととして積み重ねられたものである。
一〇〇日の行を行ったのは本宗では日像が初めであろう。
日像の資・大覚の自記によれば、京都開に身心を錬磨せんとして永仁元年(一二九三)一〇月二六日より一〇〇ヵ夜の間寒風に身をさらし、自我偈百巻を読み所願成就されたという。
その他、久遠成院日親の伝、勝光院日耀の伝にもこのことが見える。
山光院日詮よりの相伝書(引導・開眼等)を一如院日重がうけ、〈日重―日遠―日暹―日養(中山)―日近〉と次第して慶安五年(一六五二)五月本法寺日近が相伝しているが、この伝授を「大野山本遠寺において三七日竝百日の加行を修して書写し奉る」と認(したた)めている。
一百日加行祈祷の相承のみならず門流の秘書、一山の口決口伝等の相承に行規として修せられたものと見える。
また遠寿院流智泉院流加行について見るに「円立坊加行者列名記録」がある。
円立は遠寿院の前名であり、日久の時代であるから、早くから加行の場所が設けられていたことが判る。
遠寿院、智泉院両院の入行者の多くなった文化、文政のころの人数を見ると多いは一〇名少ないは二名、その入行の月は不定でいつ加行所に入ってもよかったようである。
身延での一百日加行も月をきめられなかったようで、天保一一年(一八四〇)一一月一九日に授与した積善房二四代日運の「祈祷許状」によれば文政七年(一八二四)蓮華谷において水行一〇〇日、また当流に入来して再加行成満したことにより唯授一人の秘法を重ねて「直授相承」した旨をしるしている。
一百日加行というものの厳密には一〇五日で、一千日加行成満は一〇五〇日である。
なお、積房の住持たらん者は最初、一百日加行をおえ、そのあとは三五日、あるいは二一日位ずつ法務・祈祷のすきを見て七面山に登り度々に加行して成満せよと示している。

〔木剣使用について〕身延一二世日意の相伝によれば、剣形の本尊を造立するのは謗者の敵を伏し二世の所願を満ずるためであり、首題の五字並に本尊を剣形と観念して敵・法敵を平げんためであるとえている。
身延流では、積善房日閑の感得した神枝を揚子と呼び、揚子をもって加持するのである。
この揚子は木剣であるが、これを揚子守といい、その長さは六寸である。
六寸とはいうが中指と人指とで寸をとるから七寸に近い、というから現今の木剣よりはるかに大きい。
また九字については、入行の前に積善房において三重の九字を伝授する。
それは加行中、揚子と加持珠数を合せ祈念しながら、かつ練磨させんがためであるといっている。
この珠数と木剣を用いて加持するのは既にこのころからあり、中山も同様に木剣と珠数で祈祷加持したようである。
この九字の伝受の簡単なことと木剣の大きさから考えて、現今の木剣作法に近いものと考えて誤りはないであろう。

なお積房流は明治初年二六世現明院日等、二七世妙真院日誠の時をもって中絶し、明治九年(一八七六)五月加行所を中山遠寿院に設置する規則改正を申請して許可を得、日蓮宗加行所中山におかれることとなった。
昭和二〇年(一九四五)以降の変遷については周知の如くである。
(宮崎英修)

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