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現安後善

げんあんごぜん #4109

現安後善

げんあんごぜん

薬草品の「現世安穏・後生処」の経文の略文である。
前後の文を少しゆっくり引いてみよう。
「我は是れ如来・応供・正遍智・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊なり。 未だせざる者はせしめ、未だ解せざる者は解せしめ、未だ安ぜざる者は安ぜしめ、未だ涅槃せざる者は涅槃を得せしむ。 今世・後世実の如く之を知る。 我は是れ一切知者・一切見者・知道者・開道者・説道者なり。 汝等、・人・阿修羅衆、皆此に到るべし、法を聞かんが為の故に。 爾のに無数千万億種の衆生仏所に来至して法を聴く。 如来、時に是の衆生の諸根の利・鈍・精進・懈怠を観じて、其の堪うる所に随って、為めに法を説くこと種々無量にして、皆歓喜し、快く利を得せしむ。 是の諸の衆生、是の法を聞き已って、現世安穏にして後に処に生じ、道を以て楽を受け、亦法を聞くことを得。 既に法を聞き已って諸の障礙を離れ、諸法の中に於て、力の能ふる所に任せて、漸く道に入ることを得。 彼の大雲の一切の奔木叢林及び諸の薬草に雨るに、其の種の如く具足して潤を蒙り、各、生長することを得るが如し。 如来の説法は一相・一味なり。 所謂、解脱相・離相・滅相なり。 究竟して一切種智に至る。 其れ衆生あって、如来の法を聞いて、若しは持ち・読誦し、説の如く修行するに、得る所の功徳、自ら覚知せず。 所以は何ん。 唯、如来のみあって、此の衆生の種・相・体・性、何のを念じ、何のを思し、何のを修し、云何に念じ、云何に思し、云何に修し、何の法を以て念じ、何の法を以て思し、何の法を以て修し、何の法を以て何の法を得るということを知れり。 衆生の種々の地に住せるを、唯だ如来のみあって実の如く之を見て、明了無礙なり。 彼の奔木叢林・諸の薬草等の而も自ら上・中・下のを知らざるが如し。 如来は是れ一相・一味の法なりと知れり。 所謂、解脱相・離相・滅相・究竟涅槃・常寂滅相にして終にに帰す。 は是を知り已れども、衆生の心欲を観じて是を将護す。 是の故にち為に一切種智を説かず。 汝等、迦葉よ、甚だ為れ希有なり。 能く如来の随宜の説法を知って、能く信じ能く受く。 所以は何ん。 諸世尊の随宜の説法は、解り難ければなり」
現世安穏後生善処とは、ただ我々現生(げんなま)の人間の幸福を祈るマジナイゴトのように思ってきたが、実はそうではなくして、その起源、もとの当の根拠はさまの切(せつ)ないお気持のハツロである。
深い訳があって、我々がみんなさまの(をしへ)の網の中に救われてしまっていること。
これから救われるのではなくして、もう既に救われてしまって、明日より……今日から……何をしなければならぬか、セッパツマッタイワレがあるのである。
この御文の中に「如来の説法は一相・一味」とある。
一相とはさまがお声をお出しになる。
そのお言葉は我々が聞いて分かるお言葉で説かれるのを一相という。
その一相のうちに、大小権実本迹等幽玄な法門がある。
仲々に分別区別できない意味を一味という。
それをから降りくる雨に譬え、それを聞く人々の根によっていろいろに作用・活動が顕れる。
これを草木の種に対して平等にうるおすに譬える。
同じく一滴の雨水のようで、まちまちに違う草木の種とそれぞれに得道の縁となる。
ヨケイなことは望まぬ、ムリなことはアテにしないで、与えられたままに伸々と、そして段々と生長し悟っていくのであろう。
まずそう聞いておいて、初めに「我は是れ如来」云々と、十号の宣言がある(これは様の功徳を十の称言で御人格を顕したもの)。
そして世尊とは宇宙第一の尊い様なのである。
次に・安・解・涅槃の四句は、仏様の恩徳しかも衆生を教化なさる化他のお働き、衆生化の大をいわれた。
どするとは、火急の苦(くるしみ)や恐(おそれ)から急いで救い出すこと、解(げ)するとは、一体無我夢中に苦しかったのは何か、恐ろしいのは何かに気づくこと、そうと解ってみると安(あん)ずる、安心ができる。
すっかり疑いも晴れ、浄らかな自由となる。
それを涅槃(ねはん)という。
次は化他が働いてくるすじ道、仮にこの知・見・道の三句五句を主・師・親の三徳に当ててみる。
一切知者とは一切衆生に対する親の徳、一切見者とは一切衆生を統治する主徳、次の智道者・開道者・説道者とは、一切衆生の師徳に当ろうか。
次の句は「汝等、・人・阿修羅よ、皆ここに来なさい。 みんなのほんとに必要な法を聞かうが為に」この御宣言の中に、それこそたくさんの種類の生き物が、のみもとに詣でて法を聴きました。
耳をすませて、ここにいう種の一字、種は一つだというのではなく、むしろ種類の多種多様、千万億の種類の衆生、生き物達よ、集まって来なさい。
様から本気になって法を聴こうがために来なさい。
様は、その衆生類の中に立って、その衆生達の根性(こんじよう)(生れつきの力)の程やら努力精進の合などに応じて法を説く。
それこそ種々無量の衆生類は喜び、なるほどと快く健全に利益を得させられた。
この者達はこの法を聴き已って「現世安穏に後(のち)にはきっとふさはしい処に生じ」そして聞(き)いた法の内容の道をもってその中身のいうにいえない楽(たのしみ)を受けることができる。
それは更に一層進んで法を聞こうと熟望するようになる。
法を聴き已ると、今まで気のつかなかったさはりがとれて、あらゆる物についてその人の能力によって段々と深いさとりの中に入ることができました。
つまりのおさとりの正味らしいものを幾らか味わえるようになりました。
それぞれの分(ぶん)に従っておさとりを味わえること丁、空(そら)に広がってきた雲、雨が降る、地上の一切の草木、種々の・相のものが平等に受けることができる。
そして分に応じて生長することができる。
の雨は平等、大地は平等、草木の種類は千万億、しかも平等にうるおうて青黄赤白、色々に花咲き実る。
の説法は凡夫のうかがい得ぬ自由の解脱の境でかけ橋のできるものではない(離)。
また何とか手懸りでさぐり当る代物(しろもの)でもない(滅)。
しかも我々が生長し進展して到りつく、絶対無上の味わいの境地(一切種智)・の法を聞き信ずる者や行ずる者が自然と達するのである。
さあさあ、誰でもここに来て法を聴いて、ごく素直に読誦し、説かれてあるように真面目に修行するであろう。
そうして自然に得るところの功徳は、どうして生長し・進展するかは分からないけれども、実に様だけがよく解っている。
もう少し言ってみると、誰しも今は自分の生まれたままの体や質や相や種とでいうものは分からないけれども、聞いた内容を心に念じ、よく思惟し、よく行ずるような努力により、どういう風にやるか、その方法(やりかた)が分かる。
またどういう手段(てだて)でどんな証果が得られるか。
どういう位(地位)に達したかも解って来(こ)よう。
これはただのみが実の如くこれを見とおして明了に礙(さわり)なくご覧になっている。
譬えば、かの一雨・一地の中に、草木が生長していながら上・中・下のの本を知らないこと、いわば自然智(じねんち)の動きにまかせていく。
これを教的に五つの相・…等を経て、終に諸法の実相におさまる。
くうに帰(き)すのである。
ここの(くう)とは滅無・平等・無差別の謂(いい)ではなくして、様の化利導せられた果てのオサマリを言われたと思う。
はこれを知り已れども、衆生の心もちの欲情を達観し、いつも修行の実地について憐れみの目をもって見つめておいでになる。
今までに、様はこれこれの悟りと申して一切種智をお説きになったことはないのである。
今初めてお説きになるのである。
「汝等よ、迦葉(かしよう)よ、お前たちはほんとに、ふしぎなめずらしい衆である。 よくもよくも、如来の宜(よろしき)に随って説くところの法を聞いて能くまあ信じ、よくも受けてくれたよ」。 (汝等迦葉、甚だ為れ希有なり。能く如来の随宜の説法を知って、能く信じ能く受く)
その御文句の中に「現世安穏」のうちに、我々はそっくり包まれ抱かれている。
今日の二一世紀の宇宙的速と危険をもって、さ迷うている現代を、人間全体をそっくり、果して現世安穏ということがとても心配になってきている。
それをこのままに抱かれているという解釈実感が問題である。
また尊く思える。
次の後生処は死んだのちに生れてくるいところ、よい境遇、幸福境であるが、果して我々が今、死後の快楽幸福をそのよさを比較できるかどうか。
それよりもむしろ、死んでから生れ変ってではなくして、明日・明年・数年・数十年後の将来を意味するものでもよい。
広義の明日のため、来るべき将来の幸福を意味するとしてもよいであろう。
死後の来世にまで貫(つらぬ)き通る信心まことに尊い。
「まことに日月のにおはしますならば、大地に草木のおふるならば、昼夜の土にあるならば、大地だにも反覆(はんぷく)せずば、大海のしほだにもみちひるならば、法華経を信ぜん人、現世のいのり後生の処は疑なかるべし」(定六八〇頁)。
「法花経の剣(つるぎ)は信心のけなげなる人こそ用ゆるなれ。 鬼おににかなぼうなるべし。 日蓮がたましひをすみにそめながして書きて候ぞ、信じさせ給へ。 の御心は法花経なり。 日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。 ……あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ。 何か成就せざるべき。 充満其願如清涼池、現世安穏後生処疑なからん」(定七五一頁)。
「ただ一心に信心おはして霊山を期(ご)し給へ。 ぜに(銭)と云うものは用(よう)にしたがって変ずるなり。 法華経も亦復かくの如し。 やみには灯(ともしび)となり、渡(わたり)には舟となり、或は水ともなり、或は火ともなり給うなり。 若し然らば法華経は現世安穏後生処の経文なり」(定八〇七頁)。
《『遺文辞典』教学篇「現世安穏後生善処」の項、『日蓮辞典』「現安後善」の項、『岩波仏教辞典』「現世安穏・後生処」の項》
(室住一妙)

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