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修法(i)

しゅほう #647

修法(i)

しゅほう

修験故事便覧』忍辱鎧日栄著・享保一七年(一七三二)刊二ノ三三に「修法」とは「息災増益ノ法ヲ修ス」をいう、とあるが「加持」「祈祷」の法を修することち執行することである。
加持」とは同書一ノ一四に「加被之力ヲ以テ行者ヲ任持シテ則チ除災与楽セシム。 故ニ法師咒ヲ誦シテ病者ノ除災ヲ祈ルヲ亦加持ト云フ也」とあり「加治」とも書くことがある。 「祈祷」とは同書二ノ三〇には「祈」も「祷」も「福を求む」るためのものであるとしているが、わが宗の「修法」とは「如来秘密、神通之力の法を修すること」である。 修するとは「妙法」に魂を入れ、活きた「妙法」として授けることを意味するのである。 「加持」とは「妙法経力を加えて法華経を受持せしめる」ことである。 「祈祷」とは『祈祷経送状』(定六八八頁)にある「仏天に祈誓し、妙法広布息災延命を祷る」ことである。
なおここでは「修法」「加持」「祈祷」の三字句は同意語として扱うにする。
日蓮宗の祈祷を北尾日大は「宗学上より見たる本宗祈祷論」(『日蓮主義大観』一八九頁)に、時間的分類とでも言うような、(1)常時的祈祷、(2)別時的祈祷。 の二つに分けて説明している(説明は原文のまま) (1)常祈祷とは――吾徒が本領的信仰をして常恒不断に大本尊に向って大いに祈願すべき、現世及未来に於ける即身成仏の大目的、又は一天四海皆帰妙法の大理想に対する真諦的第一義の祈祷を言う。 吾徒が毎日勤経の際、前に唱題読誦して祈祷する大主眼ち是れなり。
(2)別祈祷とは――前の常時的祈祷の如く誰人も常恒不断に修すべきにあらず、随宜臨に行わるべきものにして、種々雑多の意趣ありて一定せず。 ち過去の罪障消滅を祈念し、或は現在の息災延命等を祈願し、或は将来の諸願成就を祈祷するが如き、直接成仏得脱の大の為にあらざるも接に其の助道の法となるものを言う。
とあるが、身延山積善坊流の伝書に、「惣じて、祖師よりの祈祷に通、別の二途あり。 通とは真の御祈祷経これなり(略)其の趣きは常に之を読誦して弘法の障碍を除けとなり。 今の病人(身心両病)加持等の祈祷は別して日向へ御相承なり云々」(長瀬東洲編『本化祈祷秘伝書』)とあって「通」「別」に祈祷を分けている。
ち、いずれにしても本宗の祈祷修法は祈祷経をもって根本聖典とし、末法弘経、妙法広布の大願と、現当の息災延命、所願成就の小願の満足を祈念することである。(図一)
今このことを現代的に分類図示してみると。 (図二)
以上の如きものであろうが、これらの加持祈祷を成功させるためには、仏祖三宝と諸天善神即ちの加被力が働かなければ修法の成就はあり得ない。 この天の援護を授けられるためには修法師の確固たる信念即ち信仰心と、無欲大慈悲が無ければならないが、特に現加持に当っては厳正なる態も必要とするのである。
身延山積善坊一〇代、中興、仙寿日閑(一五七五-一六七二)は「修験の法は平等の慈悲を第一となす耳。 一念も名利に亘れば必す現あり」といっている。 修法師の修行として日常、法華経特に「祈祷経」の読誦と唱題は欠かすことができないのである。 この修行によって、本仏の大慈大悲の仏力が働いて、妙法経力が活動し、またこの修行の力は修行者の信力を深め、遂に念力をも生ずることになるのである。 この修法の効を「感応の縁由」という言葉を用いて『祈祷肝文鈔』等には解説しているが、北尾日大もこの「感応の縁由」について諸説を挙げて説明している。 (『日蓮主義大観』一九二頁)
 (1)五(力)因縁説、(2)三力合成説、(3)三事寄成説、(4)二力合成説、(5)一カ唯成説の五説を挙げ、また左の如く図示して祈祷の成果を説いている。
五力説 仏力 法力 信力 念力 素行力
三力説 仏力 法力 信力
説 善法 善施主 行者
二力説 他力 妙力
一力説 自力
(1)五力因縁説は前述の優陀那日輝著『加持病患祈祷肝文鈔』(祈祷肝文鈔)明治一一年(一八七八)刊の「感応の縁由」の項を引いたものであるが、北尾日大は、一の仏力は「大慈大悲、常無懈倦」、恒求善事、利益一切」の釈迦牟尼仏、即三徳有縁の如来の大救済力であり、祈祷の一大要素である。
二の法力仏陀の説き給える真諦大法秘密神咒の不可思議力で、亦祈祷の一大要素である。
三の信力は行者が法力を通して、仏力を信頼し、祈祷の成果を疑はざる一心清浄の至誠心をいう。
四の念力信力をもって、更に唱題の修行又は神咒加持の功徳により、一層堅実有効ならしむる持念力を言う。
五の素行力加持の行者の平素の修行による福徳力にして、能く信力、念力の助道となるもので、この五種の善因縁具足すれば祈祷の利益むなしからずという。
(2)三力合成説は五力説と開合の相違があるのみである。
(3)三寄成説は聖人の『法華初心成仏抄』に「祈も又是如。 よき師とよき檀那とよき法と此三つ寄合いて祈を成就し、土の大難をも払ふべき者也」(定一四二三頁)とあるによったものである。
(4)二合成説は祈祷の効果を「仏の他力」と「信仰の自力」の合成に帰するものである。
(5)一力唯成説は祈祷の効果を自他不二のただ「妙力」のみに帰するものである。
としているが、『修験故事便覧』二ノ六四には「祈祷修験者心地之事」として、“道心”“無欲”“一心”を挙げ、また同書五ノ二五に、“信心強盛”“慈悲深重”“志念堅固”“勇猛精進”なるべきとしている。 是らの力の結合が「感応道交の縁由」となって修法成就するのであるが、これらの要素を検討してみると「仏力」「法力」「信力」の「三力説」が、当を得たもののように思われる。
この感応道交の果報の成就は御本尊に祈念することにより生ずるのである。 その「祈祷本尊」は最近まで「鬼形鬼子母大神」であるといわれていたのであるが、いつ頃からその様になったのであろう。
祈祷経送状』(定六八八頁)には、「毎日此等の勘文を誦し候てに祈誓し候(略)」。 「向後は此一巻の書を誦してに祈誓し御弘通有る可く候(略)」とある。 天とは三宝、諸天神の略称である。
本文の『祈祷経』即ち『末法一乗行者息災延命所願成就祈祷経文』(定二二〇七頁)には、迹門と本門とに分けて勧請されている。
迹門は、
   勧請
 南無霊山浄土釈迦牟尼     一礼
 南無宝浄世界多宝       一礼
 南無十方分身諸釈迦牟尼    一礼
 南無薬王、薬上、普賢、文殊、妙音、観音等、八万ノ大士、身子目連等、霊山会上諸賢聖衆仰き願くは願主の心中の所願決定成就円満ならしめ給え。
とあり、本門段の勧請は、
 勧請したてまつる本門寿量本尊
 南無久遠実成大恩教主釈迦牟尼如来 一礼
 南無証明法華多宝世尊 一礼
 南無自界他方本仏等 一礼
 南無上行無辺行浄行安立行等六万恒河沙等地涌千界ノ大菩薩 一礼
 南無開迹顕本法華経中一切常住三宝 一礼
 惣じて受持者擁護諸天善神末法の行者に於て息災延命、真俗如意、広宣流布、得已満足せしめ給え
とある。
また「祈祷経言上」(定二〇九三頁)には、
 南無平等大慧一乗妙法蓮華経
 南無霊山浄土久遠実成釈迦牟尼
 南無宝浄世界証明法華多宝如来
とあり、以下本化、迹化菩薩、諸大声聞と惣して霊山虚空当機結縁の諸衆等を勧請しているが、鬼子母神の神名はなく、但讃文の中に「然れば則ち鬼子母神、十羅刹女は若不順我咒、悩乱説法者、頭破作七分、如阿梨樹枝と誓い給う(略)とあるのみである。
寛永六年(一六二九)義道伝(後の身延山二八世日奠一五九五-一六六七)書写の『読誦法華用心抄』(法華肝心用心抄とも言い身延山蔵)に、「釈迦多宝を始め奉り本化上行等四大菩薩並に一々の諸、法華経を守護し玉ふ鬼子母神十羅刹女(略)」とある。
承応二年(一六五三)、高槻市一乗寺六世善明院日栄(一六一五-九三)書写の「本門本尊本門肝心」(咒詛返)には、
 南無久遠実成大恩教主釈迦牟尼如来
 南無証明法華多宝如来
 十方分身三世ノ諸
と本化、迹化の諸菩薩、三国伝燈の大師、末法唱導師日蓮大士、日向聖人等中略大梵天王乃至鬼子母神、十羅刹女等が勧請されている。
元禄五年(一六九二)遠寿日久(一六六二-一七二七)書写の「法華肝心抄」には、
 南無久遠実成大恩教主釈迦牟尼如来
 南無証明法華多宝如来
 南無十方分身三世
その他、本化、迹化菩薩声聞縁覚、三国伝燈の大師と日蓮大士、日常日親聖人等大梵天王等の後に鬼子母神、十羅刹女が勧請されている。
同じく「咒詛遠離秘法」には
 南無平等大慧一乗妙法蓮華経
 南無久遠実成釈迦牟尼
 南無証明法華多宝如来
と本化の四菩薩霊山会上の諸賢聖衆と法華経中一切常住三宝、日蓮大菩薩、鬼子母神十羅刹女等とある。
また「鬼子母神十羅刹女言上」には、「鬼子母神十羅刹女と申し奉るは其身は鬼道に権化して(略)鬼形を示現すと雖も五番神咒の列につらなり(略)法華一乗の行人を守護したまう」。 とあって、鬼形の鬼子母神ではあるが祈祷本尊とはしていない。
宝暦一一年(一七六一)書写の智泉院流伝書『祈祷鈔』(和歌山県本正寺蔵)の一ノ十に、
  祈祷之心持之
 御本尊ヲ掛ケ奉リ、祈祷道場ヲ荘厳ス
とある。
また少し代の下った同流伝書(池上本成院蔵)には「祈祷壇図」があり、中央には御本尊、向って右に鬼子母神、左に三十番神が勧請され、その下に各種の幣束が安置されている。 これらの祈祷本尊大曼荼羅本尊のことである。
江戸文化爛熟の文化・文政期は祈祷修法の最盛期でもあった。 保一二年(一八四一)幕府政権交替の紛争の余波を受けて幕府の弾圧を被った、智泉院二〇世守玄日啓(一七七〇-一八四二)は祈祷の達者であったが、今迄の同流の祈祷本尊大曼荼羅のほかに「祈祷本尊南無鬼形鬼子母神」と明らかに勧請している(保七年の言上文等にあり)。
遠寿院流においてはいつ頃から鬼子母神を「祈祷本尊」と拝し始めたのかは不明であるが、遠寿日久の時には前載の如く「鬼形」の呼称も既にあり、また「法華一乗の行人を守護したまふ(略)」とはあるが、祈祷本尊とはしていない。 このは多分、文化・文政の頃、智泉院と前後して遠寿院に於ても「鬼形鬼子母神」が祈祷本尊として勧請されるに至ったのであろう。 遠寿院二三世妙竜院日逞(後に日泰と改む。 -一八五八)は嘉永元年(一八四八)「真体法剣」と称する剣形木剣を発表し、剣形中央首題の真下に「南無鬼形鬼子母神」と書き入れて、祈祷本尊にかたどっている。
身延山積善坊流の完道院日学(智泉院日啓と同時代の人)が天保一一年(一八四〇)再行の砌書写の伝書(『本化祈祷秘伝書』二三八頁)の「法座荘厳次第」を見ると、檀上中央に御本尊、向って右に鬼子母神、左に七面大明神を安置してある。
これらを考えて見ると「祈祷本尊・鬼形鬼子母神」となったのは、化政期頃より中山を中心として言い始められたものであろう。 明治に到り、中山に一本化された加行所は遠寿院を行堂として開設されたが、幕末の「祈祷本尊南無鬼形鬼子母神」がそのまま「祈祷本尊南無鬼形鬼子母大神」となって伝習されてしまったようである。 しかし現在では祈祷本尊とは別に「法華行者擁護南無鬼子母大善神」として勧請されている。
さて、本宗の修法が修法師の信心を出発点として修法円成の一環となっていることは「一一文々是真仏」であるという、法華経への強い信仰心があるからであり、だからこそ「御守札」も「御苻」も授与できるのである。 この秘妙苻守に書かれた法華経の文字が「妙法経力」となって活動し、大神力を顕現するのであって、決して「鰯の頭も信心から」ではない。 日蓮聖人祈祷修法する我らに対し「祷門の一誠と四則」(私称)とも言うべきものを誡されている。 その一誠はかつて「祈祷経本門段」にあった聖句で、日像の『祈祷経之事』(『宗全』第一巻二一四頁、正本京都妙顕寺に在り、文保二年=一三一八=正月一三日祖後三七年)の中に解説されているもので、 「祈ル 広布ヲ 無二之信者貧窮短命等事」(信仰強い信者であるのに貧窮短命の人がいる事について)とある一句で、これは息災延命所願成就を祈る祈祷経の文とは裏腹な厳しい句であるために削除されたものであろう。 爾後の祈祷経にはこの聖句を見ない。
この句は「本門段」の題目一返の前に入るもののようである。 「貧窮短命等」とあって、同句の後の部分が不明であるが、日像の解説によって会通すると、 「祈祷経を読誦し、広宣流布に励む法華経の無二の信者(僧侶)であっても、必ずしも息災延命であるとは限らない。 貧窮で短命の場合があるかもしれない。 それはもともと『老少不定』の人世界のことでもあるから、驚いたり、動揺したりしてはいけない。 このことは既に法華経に示されていることで、所謂過去世の謗法業因転重軽受の発露であり、広宣流布と自身成仏の大願は身命を捨てる程のことがあってこそ成就すると覚悟しなければならない。 それ故に『ただ法華経に其身を任かせて、金言の如く修行』すればよいのである。 尚日像は『道妙禅門御書』(定一二五六頁)もひいて解説されている。 これが布教伝道に当る僧俗篤信者への御教示であるが、特に祈祷経中の聖句である故に、祈祷修法者への誡訓とすべきものと思い、あえてこの一句を載せたのである。
祈祷についての四則とも言うべきものは『道妙禅門御書」に、 「(略)祈祷に於ては顕祈顕応・顕祈冥応・冥祈冥応・冥祈顕応の祈祷有りと雖も只肝要は、此経の信心を致し給ひ候はば現当の所願満足有る可く候。(略)」 とあって、一、祈祷には心を込めて明らかに祈祷したことによって明らかな効験(利益)が与えられる時と、一、心を込めて十分な祈祷をしたにもかかわらず、かすかな効しか授からない場合もある。 一、心は込めているが、それとなくひそかに祈念して、そこはかとない御利益があったり、一、心は込めているが、ひそかに祈念したことに対してはっきりした御利益を頂いたりすること。 等の効はあるが、この経への信心さえあれば顕応あるいは冥応となって、現当二世の所願は成就することを示されている。 祈祷の効果である顕応も亦冥応も共に仏天の大慈悲であるということである。 以上「祷門の一誡」は修法師自身にとってのことであり、この四則は主として祈祷を受ける側にお示しになったものであり、また祈祷する者の心構えでもある。
上来述べた如く、本宗の祈祷修法とは修法師の信力によって如来秘密、神通之力の法を修することであるが、これが久遠本仏の大慈悲の発動で、この仏力と、妙法経力即ち法界の本因本果を集めた功徳の結晶であるところの妙法の力が、行者の信力によって活動し、いわゆる「毎自作是念、以何令衆生、得入無上道、速成就仏身」の大慈大悲となって薬草諭品の「雨之所潤、無不豊足」の法雨の如く、信、不信の両者を潤おし、不信の者には法華の信を生ぜしめ、共に成仏得脱の妙因を植えることが目的なのである。
(加藤瑞光)

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