三力
三力
さんりき
(1)法力・仏力・信力の三つをいう。
一に法力は、また経力ともいう。
久遠本仏の因行果徳(成仏のための一切の修行と仏となってからのあらゆる慈悲救世の徳)のすべてが収められている妙法蓮華経の五字七字の功徳力救済力をいう。
二に仏力とは、衆生をして等しく仏道を成ぜしめようという久遠本仏釈尊の毎自作是念の悲願力。
三に信力とは、行者の何ものにも動じない堅固な信仰心受持の力をいう。
信力は行者自らが起すものであり自力とし、仏力は行者をして生死を脱せしめようという仏の願いであり他力、そして法力は、仏力と信力をつなぐものであり、自他二力融合の妙法である。
この三力が融合することを三力冥合、あるいは三力和合と称するが、三力冥合したところに妙なる行法の成就があるとする。
三力については、最澄作として伝えられた『修善寺相伝私注』(『伝全』復刻版第五巻所収)に詳しく説明されているが、この書は今日偽書とされており年代は不詳である。
一方、日蓮聖人の遺文にみてみると、『十八円満抄』に三力という言葉があり(定二一三八頁)、また『臨終一心三観』には『修善寺相伝私注』の三力の箇所がそのまま全文引用されている。
しかし、両遺文は共に偽書とみなされている。
遺文には、信力という言葉は『秋元御書』(定一七三一頁)他に記されているが、三力そのものの表現は見当たらない。
では聖人に三力という考え方はなかったのかといえばそうではない。
三力という言葉及びそれを逐一説明したものはないが、法力・仏力・信力が冥合したところに妙行が成就するという思考はあるとしなければならない。
例えば、『持妙法華問答抄』(定二七九頁)の高い岸に登る譬えは、岸上に立つ人(仏力)、その人が降ろしてくれる縄(法力)、下にいる人間の岸上の人及び縄への信頼(信力)という三つの要素で行法の成就が説かれている。
また教学上最高峰に位置付けられる『観心本尊抄』の三十三字段にこの考え方が当てはまるのである。
即ち、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す、我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」(定七一一頁)とあるが、釈尊の因行果徳のすべてが収められている妙法蓮華経の五字七字の法力、衆生の解脱を願って法華経を説き妙法蓮華経の五字七字を示した本仏釈尊の仏力、それを信じ受持唱題する衆生の信力、ここに三者冥合による受持譲与という妙行成就がなされるのである。
この他にも、『法蓮鈔』(定九四四頁)に出る悲母の譬えや『生死一大事血脈抄』(定五二二頁)他に三力冥合論的な考え方が示されている。
このように、聖人には、三力を三力として説いたところはないが、三力冥合論として説明できうる考え方は確かにあったとされるのである。
(2)密教でいう三力。
即ち我功徳力(行者自身が修するところの身口意三密の功徳力)、如来加持力(仏が大慈悲をもって衆生に加える法の力)、法界力(仏性の一如平等の力)のこと。
この三力が融合して不思議の業が成就されるのであり、これを三力加持という。
(3)本宗でいう三力、即ち法力・仏力・信力のこと。
法力というのは妙法蓮華経の功徳力・経法力のこと。
仏力というのは、信を起した行者の願を成就せしめんという仏の誓願力のこと。
信力というのは、法華を信ずる行者の信心・護法の信念・受持の力のこと。
この三力を具体的に説明するものとして日蓮聖人の『持妙法華問答鈔』の「譬ば高き岸の下に人ありて登る事あたはざらんに、又彼岸の上に人ありて縄をおろして、此縄にとりつかば我れ岸の上に引登さんと云はんに(略)」(定二七九頁)の文段がよく引用される。
即ち岸の上の人は仏力であり、縄は仏の手から垂れられた妙法蓮華経の法力であり、岸の下から上に登りたいと願っている人は信力である。
この三力が相応したところに妙なる行法が成就するのであって、これを三力冥合という。
《『遺文辞典』教学篇「三力」の項、『日蓮辞典』「三力」の項》