修法(ii)
修法(ii)
しゅほう
如法に修するの意。
加持祈祷の法を説の如く修することをいう。
本宗においては、宗祖日蓮聖人以来「瓶水無漏の相承」が伝わっており、現在は本宗加行所において一〇〇日間の荒行を成満した者にのみ相伝されるところの、祈祷の作法と理論、またその実践をもって修法と称し、これを伝授された者を修法師と呼んでいる。
わが国における修法は、真言密教の流布と共に次第に盛んになり、息災・増益・敬愛・鉤召・降伏の五種修法が最も普通に行われていた。
またこの他にも、本尊によって種々の名があった。
しかしその隆盛と共に、各派各流において互いに霊験を競いあうようになり、台密・東密の修する盛儀はついには常人の及ばざるところとなっていった。
ここに修験道の興る機因となって、通俗的な修法の流行をみるに至ったのである。
本来人は願望・欲望を持っているもので、それ故に宗教には、いかなる宗教にしても祈りというものがある。
そして自身の願望を神や仏に祈る、作法・儀式もまたどんな宗教にもあるといってよい。
しかし聖人は、単なる欲望はこれを否定され、仏陀の説(仏教)に従った祈り、中でも法華経による祈りを最勝とされている。
即ち本宗の修法は順縁・逆縁、摂受・折伏等の別はあっても、究極においては久遠実成の本師釈迦牟尼仏の「ただ我一人のみ能く救護を為す」とされる大慈大悲、即ち「毎に自ら是の念を作す何を以てか衆生をして無上道に入り速やかに仏身を成就することを得せしめんと」の悲願をもって、その奥儀となすものである。
聖人は『小乗大乗分別鈔』に「(略)一切衆生の成仏のみならず、六道を出で十方の浄土に往生する事はかならず法華経の力也」(定七七五頁)とされている。
また『日女御前御返事』に「(略)此御本尊全く余所に求むる事なかれ。
只我等衆生の法華経を持ちて、南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり。
是を九識心王真如の都とは申す也」(定一三七六頁)とされている。
よって本宗修法の目標とするところもまた、他ならぬ妙法蓮華経による「一切衆生悉皆成仏」とされねばならないのである。
修法は人間の持つ願望をよく満足させるものであり、また「固ト幽冥ニ関スルヲ以テ顕露ニ之ヲ指スコト実ニ難中ノ難ナリ」(『法華験家訓蒙』)といわれるごとく、神秘的な要素の強いものでもある。
それ故に、ともすれば修法それ自体が目的とさえなってしまいがちである。
しかしこれに対して、聖人は『祈祷経送状』に「(略)法華経の行者は信心に退転無く身に詐親無く一切法華経に其身を任せて金言の如く修行せば、慥に後生は申すに及ばす今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、廣宣流布之大願をも成就す可き也」(定六八九頁)とされている。
従って修法とは妙法広布の手段であって「一切衆生悉皆成仏」を目標としているものである。
かような修法の根本理念を現ずるため、修法師は修法を行う場合、特に次の三つを心得ていることが肝要とされる。
(一)神聖な如来の使として、如来の事(じ)を行じ、身命を法華経に捧げて報恩に徹し、広宣流布につくす。
(二)修法の場に臨んでは、久遠本仏の純正な大慈悲心をわが心とする。
即ち親が子の病を治するがごとき心持をもって相手に接し、病尽除癒を最もの悦びとし、物心ともにいかなる報酬をも求めないこと。
もし布施を受けるについては、蜂が蜜を採取するのに、その花をいためず蜜の小分を受けるように、信徒の心にまかせるべきである。
(三)祈祷には顕益・冥益の二があることを信じて、自身強盛なる信心をなして罪障消滅の自行に励むこと。
そして自ら不断に身心共に清浄に精進し、いかなる魔障をも決して恐れてはならない。
以上三点は修法師の必須の心得である。
本宗修法に関しては、他言を許されぬ無漏の相承となっている。
故に許される範囲でその理を少しく述べるに止める。
その根本は先述の如く、久遠の本仏釈尊の智慧と衆生済度の大慈悲にあることは言うまでもない。
更に聖人はこれに対応して、守護を願う衆生の、釈尊・法華経への帰命こそ肝要とし、法華経を如説に行ずる時「法華経の行者の祈のかなはぬ事はあるべからず。
(略)行者は必ず不実なりとも智慧はをろかなりとも、身は不浄なりとも、戒徳は備へずとも南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給べし」(『祈祷鈔』定六七九頁)とされている。
これは祈る側の修法師においては当然心得るべきことであるが、同時に祈ってもらう対告衆の側においても、法華経の信受を忘れてはならないものである。
さて祈祷には現当二世の祈りがあるとされる。
そして現世の祈りはまた当来の世における成仏に結びつくものであることを認識せぬばならないが、今は現世の祈りについてみることとする。
これに通別の二がある。
通は立正安国、仏国土建設の祈りであり、別とは個人的な祈りである。
通は妙法蓮華経の広宣流布、即ち修法の根本理念に直結する祈りである。
別は修法を通して妙法広布に結びつけるべき祈りである。
今は普通用いられている個人的な祈りについて述べる。
これには所願の円満成就、病気の平癒等がある。
法華経を信行する者にとってこの経は『薬王品』に説かれているごとく「(略)能く一切衆生を救いたまう者なり。
此の経は能く一切衆生をして諸の苦悩を離れしめたまう。
此の経は能く大に一切衆生を饒益して、其の願を充満せしめたまう」ものである。
そして、あるいは寒き者が火を得るように、子が母を得るように、渡に船を得るように、病に医師を得るように、暗に灯を得るように、また貧しい者が宝を得るように、信行する者は救われるとされている。
修法はこの妙理を、最も効果的に発動させるものなのである。
さて病気について更に述べると、これには身病と心病の二種がある。
身病(事相)は地・水・火・風の四大より生ずる病とされている。
また心病とは空体より発する病で、これには五病がある。
即ち生霊・死霊・野狐・疫神・呪詛(五段の邪鬼)によるものである。
これら五病は空にして無量の病を生ずるものである。
しかしこれら五段の邪鬼といえども、法華経においては仏魔一如とされるべきであって、十界皆成の法味を嘗めて得度すれば、守護の善神ともなるものである。
このように法華の妙理は「諸餘怨敵皆悉擢滅」(『薬王品』)の病の良薬ともなるものである。
この良薬はもともと心病を治すためのものであり、事相の身病を治する法ではないが、大悲抜苦のためには身病をも救療しないものではない。
修法師はこれを心得て修法せねばならない。
心病と身病の両者を心得て一致して念ずるが故に加持というのである。
即ち法華経を誦してこれを祈る時は、諸天影嚮の応を垂れ、衆生の信あってこれを感ずれば、病を治することができるのである。
これは正に釈尊上行所伝の秘法であって、聖人より日向に相承され、代々に血股相承口決のものとされている。
修法師が身病をも治するのはこの故である。
ただし修法するにあたっては、いかなる修法をどのように用いるか、また修法に適するか否か、その対象の認識を十分になさねばならぬことはいうまでもない。
これを考慮せぬ修法は、乱用というべきものである。
殊に法規を無視して修することは、厳に慎しむべきである。
次に修法と本尊に触れれば、鬼子母尊神をもって「祈祷本尊」と呼ばれることがある。
事実修法する場合、鬼子母神の宝前において修することが多く、一般に鬼子母神を祈祷本尊と誤解していることもあるようにみえる。
しかし本尊は本宗においては、いかなる場合でも異るものではなく「本門の本尊」だけである。
鬼子母神は他の法華経守護の諸善神と同じく、法華経の行者を守護することを仏前において誓約された守護の善神である。
ただ祈祷においては、他の諸尊の信仰を抑えて特に尊信を受けるようになったため、特別視されるに至ったのであろう。
修法が妙法広布のためのものであるとする根本に照らしてみれば、この点も明確にされるべきである。
聖人も種々の修法をされている。
伊豆流罪中には、地頭伊東八郎左衛門を祈って病悩を治し、入信させている(『船守弥三郎許御書』定二三〇頁)。
『可延定業御書』には、文永元年(一二六四)に悲母の病悩を癒して四年の寿命を延べたとされ(定八六二頁)、更に同書に富木尼の病気に対して、富木尼が自筆で姓名と年を書いて送ってくれば、日天月天に自我偈をあげて祈願する、と記されている(定八六四頁)。
また南条時光の病気に当って『薬王品』の「此経則為閻浮提人」以下二八文字をもってする護符の作法を明かし(『伯耆公御房消息』定一九〇九頁)、『日眼女釈迦仏供養事』において、お守りを授与し、厄除の祈願をされたことも判明している(定一六二三-四頁)。
更にまた四条金吾女房日眼女には、安産の護符をも与えられている。
あるいはまた、諸尊に祈る時その効験を増さんがために、これを責め、苦しめる、苦治本尊、本尊呵責の修法も行われている(『種種御振舞御書』九六五頁、『諫暁八幡抄』定一八三一頁、『法華證明鈔』定一九一〇頁)。
これらの外にも例証をもって示せば、その事跡は決して少なくはない。
さて聖人よりの相承で、修法に際して必ず依用される『祈祷経』がある。
詳しくは『末法一乗行者息災延命所願成就祈祷経文』とされている。
また法華経各品の肝要文を抜粋しているところから、後世『撰法華経』、あるいは『撰経』とも称せられている。
これは法華経弘通を志す修行者の守護を仏天に祈請するものであり、毎日一返読誦し如説に修行することを怠らないならば、現世安穏・後生善処の大果報を得、妙法広布の大願も成就する、とされているところのものである。
聖人はこの書を日常ら諸弟子に授与せられたようである。
以来師から弟子へ、聖人真筆を相伝し、あるいは書写して感得し、今日に至るまで相承されている。
本書は本宗祈祷の根本ともされるべきもので、唯授一人の持経といわれ、故に現在でも自門の僧侶といえども一〇〇日苦修錬行した者でなければ、決して他見、相承することはできない深秘の書である。
なお日像は帝都弘通の時には本書を随身しており、日像の手によって、早くも本書は註釈され『祈祷経之事』と称されている。
また本書註釈が大成されたのは心性院日遠による。
その書『祈祷経瓶水鈔』は、文の起尽を分節し義の綱要を註釈し、最末には聖人より伝々縄々し自身感得の趣きを記している。
聖人滅後も修法は盛んに行われている。
京都では早くより祈祷が盛んで、先述の日像は京都弘通に当って、細字法華経を書写し、一〇〇日を期して鎌倉由井ケ浜にて行を重ね、翌年二月に行を満じ、四月上洛して弘通している。
本宗における一〇〇日間苦修錬行の最初である。
日像の開いた妙顕寺は、のち建武元年(一三三四)四月一四日、綸旨を受けて本宗最初の勅願寺となった。
これは日像が盛んに修法による布教をしていたことを証するものである。
また日像の弟子大覚は、延文三年(一三五八)祈雨の法を修して効験あり、これによって大僧正に任ぜられ、同時に聖人に大菩薩、日朗・日像に菩薩の号を賜っている。
また(本圀寺)も日静代に勅願所となるなど、京都での修法布教の盛んであったことが判る。
関東においても修法は盛んで、中でも身延と中山は本宗修法流義のうち最も隆盛をきわめた。
身延は日向から伝わったようであるが、江戸初期日閑が積善坊流を開いてから全盛期を迎える。
この流れには一道院日法、桑名円妙寺の日隆らが著名である。
中山流は日常・日高・日祐と伝えられ、一〇代日俒に至るまでは貫首の唯授一人の相承とされていた。
しかし日俒退隠に当って、広宣流布のためには広く行法堅固の者に伝えるべきであるとし、経王院日祥に伝授したといわれる。
日祥はこれを受けて、寛文年間に円立坊を建て、修法相伝のための行堂を設けて、のちの基礎を造った。
元禄年間(一六八八-一七〇四)に至って、遠寿院日久は円立坊を継承し、後にこの流は遠寿院流と呼ばれた。
百日加行の制度が設けられたのも、日久によるところである。
苦修練行百日というのは、これよりも過なるときは堪えることを得ず、これよりも減ずれば軽易となり、まことに当を得たものである。
祈祷伝書もその多くは日久によって整備されたものである。
更に中山では正保年間(一六四四-四八)に智泉院一〇世日住が智泉院流を起している。
一説にこれは中山流の修法が断絶するのに備えたものといわれる。
別に江戸時代中期に、唯観院日勇が自得した唯観流の修法もあり、京都本瑞寺忍辱鎧日栄の頃までは盛んであった。
なお身延と中山については、たとえば遠寿院日久は前後七回も身延へ登詣し、心性院目違の『祈祷経瓶水鈔』を書写し、中山へ持ち帰るなど、相互に交流があって伝えあっていたことが判る。
即ちこれらいくつかの流義の別はあっても、その根本においては無別とされるのである。
今日本宗では、正中山法華経寺において、毎年一一月一日より翌年二月一〇日までの一〇〇日間、加行所が開設され、その間苦修錬行、祈祷経はじめ種々の相伝がなされている。
《『修験故事便覧』、優陀那院日輝『祈祷肝文鈔』、宮崎英修『日蓮宗の守護神』、『法華験家訓蒙』、東京修法師会発行『修法講習録』、本化修法道研究会『顕妙秘論抄』、『遺文辞典』教学篇「修法」の項》(植田観泰)