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順縁・逆縁

じゅんえん・ぎゃくえん #5215

順縁・逆縁

じゅんえん・ぎゃくえん

受容に対する二種の縁の在り方をいう。
教に接する姿を衆生の事縁によって分別したもので、教えに触れることによって、素直に感受し信順しながら益果を受けること及びその人を順縁といい、悪事、遮難、誹謗正法等の逆事により、却ってそれを縁として仏道に入るを逆縁という。 また順縁を縁、逆縁を縁とする意もある。 更に逆縁を俗に万物が自然の形で現れないこと、例えば親より先に子が亡くなるというような、逆の在り方に用いる場合もある。
日蓮聖人は『法華取要抄』に「末法に於いては大・小、権・実、顕・密共にのみ有って得道なし。 一閻浮提皆な謗法と為り了んぬ。 逆縁の為めには但妙法蓮華経の五字に限るのみ。 例せば不軽品の如し。 我が門弟は順縁、日本国は逆縁也」(定八一六頁)と言われる如く、順当に妙法を受持する門弟らを順縁とするのに対し、法華観奨を疎外するが、その謗法を縁として仏道への種になるを逆縁としている。 これは末法衆生の機根に順逆二縁があることを示す。
殊に逆縁多きは末法衆生の機根が法華久遠大通の結縁に浴さなかった本未有善の謗法の機であることと、本未有善なるが故に法華本門下種直機であるためである。 『観心本尊抄』に「今末法の初め、小を以って大を打ち、権を以って実を破し、東西共に之れを失し地顛倒せり。 迹化四依は隠れて現前せず。 諸其のを棄て之を守護せず。 此の地涌の菩薩始めて世に出現し、但妙法蓮華経の五字を以って幼稚に服せしむ。 因謗堕必因(由)得益とは是れ也」(定七一九頁)と言われるはこの逆縁下種の意であり、『文句記』巻第二八の「謗に因りて悪に堕すれば、必ず由(なお)益を得」(会本二八-五三丁オ)の引用は法華誹謗の逆縁者も謗法の悪果を感受し、その縁によって後に下種の益果を証得できる順縁たることの表明でもある。
こうした解釈は、言うまでもなく不軽品に依拠している。 ちかつて不軽菩薩を罵詈誹謗した罪により地獄に堕ちた人々が後に再びこの菩薩に遇い、化に服したという、逆縁の衆生をも広義において順縁なる義であることより開出されてくるものである。 これを「逆是順」(逆ち是れ順なり)とも呼んでいる。 湛然が『文句記』の「不軽品」釈で「諸経は但順化の弘教を明し、此の品には俗を礼して逆化をもって理に通ず」(会本二八-四〇丁ウ)と指摘する如く、法華経が円満教なるゆえんの一つも化導が順逆二縁にわたる点にあると共に、ここに聖人が一生涯貫かれた逆化折伏の重要な意義も出てくるといわなければならない。
《『遺文辞典』教学篇「順縁」「逆縁」の項、『日蓮辞典』「逆縁」の項、『岩波仏教辞典』「順縁・逆縁」の項》

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