法道
法道
ほうどう
(-一一四七)
法道三蔵。
宋の徽宗・欽宗・高宗の三代にわたり仏法の守護と興隆に努めた高僧。
初め永道といつたが、後に徽宗より宝覚大師の号および法道の名を賜わる。
また高宗より円通法済大師の号を加えられ、宝覚円通法済大師法道と称せられた。
日蓮聖人は『開目抄』(定六〇〇頁)、『佐渡御書』(定六一二頁)、『同生同名御書』(定六三三頁)、『四条金吾殿御返事』(定六六三頁)等に国王を諫暁し、迫害をうけた仏教者として引用されている。
さて徽宗皇帝(一〇八二-一一三五)は道教をたっとび、従来宋朝で行われていた仏先道後の席次を道先仏後とし大観元年(一一〇七)、道士林霊素の説に従って道教を興隆し仏教に圧迫を加えた。
宣和元年(一一一九)正月、詔により仏を大覚金仙、菩薩を大士、僧を徳士、尼を女徳士、寺を宮、院を観と改めさせ、仏教の道教化をはかった。
そこで宝覚大師永道(法道)は上書し、廃仏の先例を引いてその報いの恐ろしさを説き徽宗を諫めたが、徽宗は大いに怒り永道を道州(湖南省道県)に流した。
廃仏を断行したところ連日人身事故が起った。
同年三月京師(汳京(ベンケイ)、今の開封)に大水が出たので、徽宗は林霊素に治水を命じた。
霊素は治水に失敗し信望を失う。
徽宗はやがて霊素の悪心を知り、一一月、彼を温州(広東省江陽)に放逐した。
その間に八月、詔により僧尼の称が復旧し、九月になると道州の永道は近郡に移された。
そして宣和七年(一一二五)六月、永道は許されて京師にかえり、勅により昭先禅院に住し「法道」の名を賜わった。
建炎四年(一一三〇)三月、高宗より円通法済大師の号を加えられ、宝覚円通法済大師法道とよばれた。
紹興一七年(一一四七)七月遷化。
なお『釈氏稽古略』巻第四によれば、紹興一七年四月『大宋僧史略』を叙し、秋七月二一日逝いたという。
《『仏祖統紀』四六・四七巻、『仏祖歴代通載』一九巻、『釈氏稽古略』四巻、道端良秀『中国仏教史』、『遺文辞典』歴史篇「法道」の項》