宗祖の修法
宗祖の修法
しゅうそのしゅほう
修法とは一般に密教の祈祷法を修することをいうが、本宗で修法というのは法華経による祈祷法を修することをいう。
修法という言葉を、日蓮聖人はあまり用いておらず、祈祷あるいは祈りということが多い。
日蓮聖人の宗教は、一天四海皆帰妙法を目ざし、一切皆成仏と立正安国の仏国土を顕現しようとするにあり、日蓮聖人の祈りは、この皆帰妙法、仏国土建設の理想の願望達成のためになされていることは論をまたない。
またこのような全体的な祈りと共に、個人の願望成就のための祈りも数多く行い勧信している。
一般に祈りは、「現当の祈り」を基礎とするが、「当の祈り」即ち未来の祈りとは成仏得道の祈りであり、「現の祈り」は普通に考えられているように現在の自分の願望を成就することを祈り、現世安穏ならんことを祈ることである。
而して順縁、逆縁共に現在の自身の安泰を感得し、信得するとき、未来の成仏と直結し、この信心の確立は当来の世に持ちこまれるものであることを確信させることが、祈りの大切な要素である。
いま聖人の修法、即ち対個人的な祈り、祈祷はいかようのものであったかを見よう。
聖人は『祈祷鈔』の冒頭に華厳宗、三論宗、小乗の三宗(倶舎・成実・律)、真言宗、天台宗などで祈祷を修するが、いずれの宗の祈りに験があるかという問を設け、「仏説なればいづれも一往は祈となるべし。
但法華経をもていのらむ祈は必ず祈となるべし」(定六六七頁)と答え、その理由は、二乗は始めて法華経によって成仏し、一切の仏、菩薩、諸尊等もこれによって真実の仏菩薩等となることができたのであるから、法華経の恩を報ずるために法華経の行者の祈りをなさんには必ずこれを守護して祈りを叶えられるであろう(定六七九頁)と教示されている。
ところがこの聖人の祈りに対し、あるいは「日蓮は少(わかき)より今生のいのりなし。
只仏にならんとおもふ計り也」とある『四条金吾殿御返事』(定一三八四頁)の文をあげて、聖人は祈祷を容認されなかったという主張をする人たちがある。
これは祈祷とか修法とかいうものは非科学的であり、迷信的、新興宗教的な現世利益主義であるから、こうした迷信的要素を払拭し、合理的、実証的な聖人の宗教的性格を高揚しようとする護法的主張とも見られるが、これは聖人の宗教が極めて主知的、合理的であると共に、神秘的合理性、宗教的実証性を有していることを理解せぬ素朴な主張にすぎない。
しかもまた、この引文の方法は断章取義で、本文を故意に歪曲したものであって、原本文は「日蓮は少より今生のいのりなし。
只仏にならんとをもふ計也。
されども殿の御事をばひまなく法華経・釈迦仏・日天に申す也。
其故は法華経の命を継ぐ人なればと思也」(定一三八四頁)と述べられた文なのである。
即ち、聖人は自身の世俗の名聞利養のために祈らずただ仏道成満のためにのみ祈った。
しかし四条金吾殿、あなたの事はひまなく法華経中一切の三宝諸尊、とくに日天子に対し現世安穏を祈請している。
それは金吾殿が法華経信仰の生命をつぐ大切な人であると思うからである」との意で、あとにもふれるが、富木・四条の両氏は日天子に深い信仰をいだいているから、特に日天子に祈誓することをしるされたのである。
さて、祈りの利生功験の表れ方に四つの形がある。
『道妙禅門御書』に「祈祷に於ては顕祈顕応・顕祈冥応・冥祈冥応・冥祈顕応の祈祷ありと難も只肝要は、此経の信心を致し給ひ候はば現當の所願満足あるべく候」(定一二五六頁)とある。
本書は本満寺録外に初めて載録されたもので、奥書に御正筆をもって写したといい、また日像の『祈祷経之事』に「其ノ上へ転重軽受、或ハ顕機顕応、顕機冥応等ノ四意」等と述べているが、これは転重軽受や顕祈顕応等の語意が一般に熟知されていて顕機顕応と書かれたものであろう。
本満寺録外の奥書といい、日像の著述にのせられていることといい、本御書は確かなものと考えられ、ここに教示されている如く、祈祷には顕祈と冥祈とあり、功験の現れ方に顕応と冥応とがあり、それぞれが法華経の信心によって対応の功をしめしているのである。
次に聖人の教示された祈祷の行跡について見よう。
〔病気祈願〕
(1)伊東八郎左衛門の病気=聖人は法華経の信をもって祈りの最要の条件とされるが、未信者に対しても「一分の信」があれば祈られたことがある。
かの伊豆伊東配流のとき、伊東八郎左衛門祐光の預かりとなったが、八郎左衛門は法華不信の念仏者で、流人である聖人に圧力を加えた人物である。
この八郎左衛門が大病にかかった折、百方手をつくして治療にあたったがはかばかしくない。
たまたま聖人が川奈にかくまわれていることを知り、人を介して平癒の祈祷を請うたのである。
聖人は、謗法者のために、祈ることはかえって彼の謗法を助長し、仏天も納受されぬであろうから祈願せぬほうがよかろうと断ったが、余りの懇望に、もし領主が法華経を信じ入信するならば祈願することは差支えない、一分の信仰を日蓮に出したもうならば祈祷しようと答え、この約束によって仏天に祈り病気を平癒せしめられた。
八郎左衛門はそのお礼として、海中より引揚げられた釈尊像を聖人に献じたのである(定二三〇頁)。
即ち、「一分の信仰」「微信」をもいだくならば祈願することは差支えないとされている。
そしてこの時、奉納された仏像は聖人生涯の持仏となった立像の釈尊である。
然るにこれに反し、弘安元年(一二七八)のころ、秋田城介(安達泰盛)が聖人の信者である大学三郎を仲介者として祈願の依頼を申入れてきた。
安達氏は外様の御家人の第一人者で、大学三郎を庇護した人のようである。
聖人は大学三郎と泰盛、そして大学と自身との情誼を考えると、泰盛の祈願依頼は拒みがたいことと考えられたが、熟慮のすえ「されども此事は叶ふまじき」(定一六一九頁)と断固として拒否されている。
共に同じく一分の信、微信をいだいたであろうと思われるのに、前者には請を容れ、後者を拒んだのは、恐らく前者は入信帰依の状態にあり、後者は権力者の祈願依頼という名利によって、誘惑、妥協せしめんとする心情にあることを看破し、大学の取りなしにもかかわらず、あえて許さなかったのであろう。
(2)悲母の病悩=弘長三年(一二六三)二月伊東配流をゆるされ、聖人は翌文永元年(一二六四)一〇月末ごろ久しぶりに故郷の小湊に入った。
あたかも時に母は大病で殆ど死んだような有様であったが、聖人はために護符を調え、懸命な祈りをこらし、ついに母を蘇生せしめた。
母はその後、病気も回復して更に四ヵ年の寿命を保ち、文永四年八月一五日没したのであるが、聖人はこのことを富木入道尼への消息に「されば日蓮悲母(はは)をいのりて候ひしかば、現身に病をいやすのみならず、四箇年の寿命をのべたり」(定八六二頁)と報じている。
(3)聖人の晩年、弘安五年(一二八二)二月富士上野の南条時光が大病となり、日興が病床にそって看護していたが、聖人は時光の病気平癒の祈願の申入れをうけ、日朗に代筆させて護符の調整法を伝授させ、また自ら病躯をもかえりみず、筆をとって悪鬼・天魔を調伏する『法華證明鈔』を撰して送り届けた。
その護符とは薬王品の「此経則為 閻浮提人 病之良薬 若人有病 得聞是経 病即消滅 不老不死」の二八字を紙に書いて灰にやき、寅卯辰(午前四時ごろから八時)の時刻に精進河の水をとりよせ、その水一合に入れてのませよと教え、「聖人の御乳母(はは)のひととせ御所労御大事にならせ給い候て、やがて死なせ給いて候し時、此経文をあそばし候て、浄水をもってまいらせさせ給いて候しかば、時をかへずいきかへらせ給いて候経文也」(定一九〇九頁)とその効験の殊妙なことを伝えている。
時光はこれによって日を経ずして快癒し、正慶元年(一三三二)九〇歳の高齢をもって没した。
〔東条景信対清澄・領家の抗争〕
聖人が鎌倉に進出して間もないころと思われるが、安房東条の地頭東条左衛門尉景信は極楽寺重時の家人であったようで、景信は清澄山の飼鹿を狩りとり、清澄寺・二間寺をはじめ近辺の寺や房を念仏の道場とし、領家の尼の土地を押領して重時の歓心をかい、自分の土地の拡張をはかろうとした。
聖人は清澄・領家尼より重恩を蒙っておられたから清澄方となって対応策を授け、鎌倉では訴訟に持ちこんで東条と抗争し、房州では当事者双方武器をとって小競合もあったりしたが遂に勝訴となった。
このため聖人は景信によって東条の地をふさがれ、数年の間入ることができなくなり(定一五六二頁)、久しぶりに帰省した文永元年(一二六四)一一月東条法難に遭われるのである。
これはさておき、この争いの時、聖人は「日蓮敵をなして領家のかたうどとなり、清澄・二間の二箇の寺、東条が方につくならば日蓮法華経をすてんと、せいじゃうの祈請をかいて、日蓮が御本尊の手にゆいつけていのりて、一年が内に両寺は東条が手をはなれ候しなり」(定一一三五頁)と、松葉谷庵室の御本尊釈迦仏の手に起請文を結びつけて祈願をし、所願を満足されている。
〔護符・お守り〕
護符の例については前述の如くである。
また四条金吾女房が懐胎した時、護符を授けられており、「懐胎のよし承候畢ぬ。
それについては苻の事仰せ候。
日蓮相承の中より撰み出して候。
能々信心あるべく候。
(略)法華経に云く如是妙法。
又云く安楽産福子云々。
口伝相承の事は此弁公にくはしく申しふくめて候」(定四八四頁)とある。
弁公とは弁殿日昭で、聖人はこのころ鎌倉におり、日昭を使いとして護符について種々の注意を与え、あるいはお守りを授けている。
『経王殿御返事』によれば、「経王御前の事、二六時中に日月天に祈り申し候。
先日のまほり(守)暫時も身をはなさずたもち給へ。
其御本尊は正法・像法二時には習へる人だにもなし。
ましてかき顕し奉る事たえたり」(定七五〇頁)とあり、本書は文永一〇年(一二七三)佐渡よりの消息であるから、お守の形相は初期の曼荼羅本尊のようで、「身をはなさずたもち給へ」といわれているのを見ると、御本尊をたたんで身につけるようとの教示と推察される。
また日眼女は一体三寸の木像釈尊を造立し、御供養の品々を身延へ送ってきたので、聖人はその造立の功徳をたたえ「御守書きてまいらせ」送った(定一六二三頁)。
なお四条金吾が主君江馬入道の不興をこうむり君側より退けられんとして進退に窮したとき、聖人は金吾が鎌倉に在住して家を出ぬようにし、事件の推移を見まもるように教示されたが、「まほりまいらせ候」とお守りを送って諸天の守護を請われている(定一三〇一頁)。
いま現存しているお守りは二つあり共に縦四九(センチ)、横三〇(センチ)の一紙に認められた曼荼羅本尊で(1)は「亀若護也」、(2)は「亀姫護也」とあり、亀若のものは建治二年(一二七六)八月一三日、亀姫の方は一日あと八月一四日授与となっている。
亀若のものは京都本満寺、亀姫のものは京都立本寺に格護されているが、この授与書が亀若と亀姫、同じく一紙、殆ど同じ日に授けられている点より見て兄妹であろうか。
このお守りの実例といい『経王御前御書』にお守り御本尊といわれている点より見るに、お守りは御本尊を認(したた)め授与されたものであろう。
〔厄よけ〕
四条金吾女房が三三の厄歳に当るというので、厄除の祈願を頼み供養物を送ったが、聖人は法華経の功力によって「三十三のやくは転じて三十三のさいはひとならせ給ふべし」(定八五八頁)と禍を転じて福となす旨を教えられたが、同じくその後しばらくして女房が三七歳の厄を迎えた。
聖人は厄を説明して「やくと申すは譬へばさい(采)にはかど、ます(升)にはすみ、人にはつぎふし(関節)、方には四維(よすみ)の如し。
風は方よりふけばよはく、角より吹けばつよし。
病は肉より起れば治しやすし、節より起れば治しがたし。
家にはかきなければ盗人いる、人にはとがあれば敵便をうく。
やくと申すはふしぶしの如し。
家にかきなく人に科あるがごとし。
よきひやうし(兵士)を以てまほらすれば、盗人をからめとる。
ふしの病をかねて治すれば命ながし」(定一六二三-四頁)と、人には厄年があるからこの厄をのがれ防がねばならぬと勧誡されている。
この厄については『源氏物語』薄雲に、紫の上が「三十七にぞおはしましける、されどいとわかくさかりにおはします」といい、同若菜にも三七歳の厄があげられ、『源平盛衰記』一〇には宗盛が「今年三十三に成給けれは重厄の慎とぞ聞えし」といい、『水鏡』の序に、今年七三になる尼が三三歳もすごしがたいと思われたが厄年ごとに厄除けをしてこのように長命を保つことができたと語っている。
この厄は陰陽道の方から来たものであろうといわれており『華実年浪草』に『霊枢陰陽経』を引き「凡そ年忌は下上の人の大忌常なり、七歳に加はり十六歳、二十五歳、三十四歳、四十三歳、五十二歳、六十一歳、皆人之大忌也」といい、『塩尻』もわが国では男四二歳、女三三歳を厄、異邦にては七歳、一六歳、二五歳、三四歳、四三歳、五二歳、六一歳に及ぶ七回の厄をあげている。
即ち七歳をはじめとして九歳を加えるごとに厄年として六一歳を終りとするのである。
忍辱鎧日栄は唯観流相伝によって、同じく七歳より六一歳の七厄をあげ「六十一を本卦がへりといいこれより厄年なし」と示し、特に男は四二歳、女は三三歳をもって大厄とすといっている。
その理由は「男は陽にして陰を根ざしとす、女は陰にして陽を根ざしとす。
故に男子は陰数の四十二歳を大厄とす、陰は重の数なり、陽は半の数也、女は陽数の三十三歳を大厄とす」と示し、しかも「厄年ということ本據たしかならず」といっている。
なおまた三三厄の外に三七歳厄(前掲)、『台記』に久安六年に藤原忠実の七四歳の重厄、『朝野群載』の康和三年(一一〇一)白河法皇が四九歳の重厄をのせているが、一般にいう厄年外の厄のあることが知られる。
聖人もまた三七歳厄、また大田乗明の五七歳の大厄(定一四九五頁)といわれていて、いわゆる厄年以外の厄のあることを示されている。
〔祈祷の作法〕
聖人が祈りをこらされた時の作法の一例として、前述の東条景信対清澄・領家の抗諍のとき、起請文を書いてこれを本尊の手に結いつけて祈られたこと、病気平癒の護符作法、またお守りは肌身はなさず持つようとの教示などがあげられるが、他にも、富木尼が病臥したとき、法華経の信心によって病を治すと共に四条金吾という名医があるからその治療をうけるように勧め、同時に「御姓名並びに御年を我とかかせ給ひて、わざとつかわせ。
大日月天に申しあぐべし。
いよどのもあながちになげき候へば日月天に自我偈をあて候はんずるなり」(定八六四頁)と述べて、信仰の力と医療の両者を重視し、その上で祈祷を受けんとするものの信仰を策励せんとして姓名と自分の年齢を自らしたため、そのための使者を特に仕立てて来詣させている。
また聖人は祈願を早く成就せしめんために本尊治罰といって本尊を呵責しせめ苦治する祈祷法を用いることがある。
これは苦治本尊、本尊呵責とも称せられるもので、かの竜口法難のとき鶴岡八幡宮において八幡大菩薩を叱咤した社頭諫言(定九六五頁)、佐渡にあって日月天を呵責されたこと(定一一五四頁)などその例である。
〔祈祷の心得〕
聖人は、対個人的な祈りを修せられるときは、いうまでもないことであるが、信を最要とし、最勝の法と、これを受持する師、この三が一体となることを要請されている。
一例をあげると、四条金吾女房は初めのころは主人にひかれて信仰に入ったものの、主人の如く純信な境地にまで至らずあいまいなところがあったらしい。
この女房が聖人に何か祈願を請うたが思うようにならなかった。
このことを聖人は「御いのりの叶ひ候はざらんは、弓のつよくしてつるよはく、太刀つるぎにてつかう人の臆病なるやうにて候べし。
あへて法華経の御とがにては候べからず」(『王舎城事』定九一六頁)と女房の信仰増進を勧誡されている。
これと同じようなことが南部実長についてもいわれている。
実長が訴訟にかかわったとき、聖人はその万端について指示されると共に仏天に祈請されたが、実長は教示された通りにしなかったので、予期したような結果にならなかった。
そこで聖人は改めて厳誡されたのであるが、今度はその通りにしたので効果があったようである。
聖人は「だんな(檀那)と師とをもひあわぬいのりは、水の上に火をたくがごとし。
又だんなと師とをもひあひて候へども、大法を小法をもってをかしてとしひさしき人人の御いのりは叶ひ候はぬ上、我身もだんなもほろび候也」(定一三〇三頁)と師檀の緊密な信仰の交流が祈祷を成就させることを示し、また両者が同心して祈っても、小法をもって祈るときは師檀共に亡ぶことを、叡山の明雲座主、平家滅亡、承久の乱等の実例をあげて明示されている(定一三〇四頁)。
従って「よき師とよき檀那とよき法と、此三寄り合いて祈を成就し、国土の大難をも払ふべき者也」(定一四二三頁)と誡しめ、更に信心を不退に堅持することを「弘決第八に云く、必ず心の固きに假て神の守り則ち強し云々。
神の護ると申すも人の心つよきによるとみえて候。
法華経はよきつるぎなれども、つかう人によりて物をきり候歟」(定一六〇一頁)と信の力が経力・法力・仏力を顕著にすることを教えている。
また聖人は、広宣流布の大願を成就せんとする行者が諸難を消滅し息災延命に諸仏諸天の加護を得ることができるように、法華経中の肝要の文を撰んで勘文経を撰せられた。
「末法一乗行者息災延命所願成就祈祷経文」といい、一般に『祈祷経』、『撰法華経』また略して『撰経』ともいう。
本書は最蓮房に宛てられた旨が『祈祷経送状』(定六八八頁)に見えるが、日像の言によるに、聖人は多くの弟子たちに授与されたもののようである。
更に聖人が特に諸尊、諸天の守護を得ようとして特に勧請された守護神としては十羅刹女、鬼子母神は最もよく知られているが、また大黒天神(定四五七頁)、日天子、月天子(定八六四頁)、倶生神(定一二七四頁)その他が法華経の行者擁護の善神として門下に教示されている。
《宮崎英修『日蓮宗の修法布教とその沿革』》(宮崎英修)