領家の尼
領家の尼
りょうけのあま
日蓮聖人遺文『佐渡御勘気鈔』『新尼御前御返事』『清澄寺大衆中』等にみえる安房国(千葉県)東条郷の領家である未亡人。
領家とは古代末期から中世にかけての荘園制における荘園の重層的領主権の一つを表すものであるが、ここでは一般的に荘園の在地領主と解してよいだろう。
またこの時期、女性の領主も珍しくなかった。
語句の意味は安房国東条郷の領主である未亡人ということになるが、その姓名は伝えられていない。
『新尼御前御返事』に「日蓮が重恩の人なれば」(定八六九頁)、また『清澄寺大衆中』に「日蓮が父母等に恩をかほらせたる人なれば」(定一一三五頁)とあるように、聖人はもとより、その両親も恩を受けた人である。
思うに聖人の清澄山登山の斡旋、あるいは南都北嶺遊学の学資等を負担したのであろう。
聖人はこの報恩のため、この地の地頭東条景信の荘園侵略、ことに清澄・二間両寺の領有をめぐる争論に、領家の側に立ち、この両寺の領有権を回復に導いた。
こうしたことで、聖人と念仏者東条景信との宗教的対立に東条郷の領主権をめぐる現実的利害の対立が加わり、景信の聖人に対する怨みは決定的となり、小松原法難の原因となった。
こうした関係で領家の尼は早くから聖人に帰依していたようだが、龍口法難に伴う日蓮教団に対する幕府の厳しい弾圧により多くの退転者がでたとき、ともに信仰をすてた。
聖人の身延入山後、その娘(あるいは嫁)新尼を介して再び門下に還り、本尊の授与を願ったが、聖人はその信仰の確立していないことを指摘して、本尊の授与を拒絶した。
だが聖人は、こののち「領家の尼ごぜんは女人なり、愚痴なれば人々のいひをど(嚇)せばさこそとましまし候らめ。されど恩を知らぬ人となりて、後生に悪道に墜させ給はん事こそ、不便に候へども、又一には日蓮が父母等に恩をかほらせたる人なれば、いかにしても後生をたすけたてまつらんとこそいのり候へ」(『清澄寺大衆中』定一一三五頁)と、その後生善所を祈念している。
古来、この領家の尼を北条氏一門の名越朝時の妻、名越尼とする伝承があるが、朝時の所領の関係から誤り伝えられたのであろう。
《『遺文辞典』歴史篇「領家の尼」「新尼(にいあま)」、『日蓮辞典』「大尼」「名越の尼(なごえのあま)」「領家の尼」「新尼御前(にいあまごぜ)」の項、『昭和新修』別巻「領家の尼(大尼)」「新尼」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人の女性信徒」「日蓮聖人と退転者」の項》
【補記】ところで、「領家の尼」は別名「大尼」である。大尼宛て状『大尼御前御返事』が真蹟断簡として存し、現存する最末紙丁付は二二であって、全体が用箋二二枚の長文状である。系年弘安二年九月二〇日(『対照録』説で『定本』は弘安三年)で、内容は大尼の信仰が依然として動揺していること、にもかかわらず尼は自身の苦境からの解放を求めて聖人に救済の祈りを懇願したがそれへの拒絶状であった。不信者の不純な祈りへの叱責と拒否、かつ重恩の人の正信への目覚めを切望する懇篤な状である。『佐渡御勘気鈔』『清澄寺大衆中』では「領家の尼御前」と記されるだけであるが、領家の尼が別称「大尼」であることは『新尼御前御返事』に「大尼御前」を「領家」と別称していて同人であることを証している。
なお、大尼の人物像を伝える長文書状『大尼御前御返事』の現存断簡三片(第一九紙・第二一紙後半一〇行・第二二紙)は当代鎌倉幕府・北条時宗政権の最要人(執権で得宗時宗の妻の父)「城介安達泰盛」、鎌倉の地における日蓮一門の有力信徒で政界の要人と言えよう「大学三郎」、その父か「大学允」、これらの名が大尼との密接な関係あるを窺がわせて記述されており、すこぶる重要な文献である。もし長文の本状全文を読むことができるならば、日蓮聖人の伝記と思想、ことに不明部分の多い父母や家庭のこと、少青年期・習学期のことなどが追想されていた可能性があったのではと想像されもするから、全体の不伝が惜しまれる。(岡元錬城)