東条左衛門尉景信
東条左衛門尉景信
とうじょうさえもんのじょうかげのぶ
(-一二五三・六四-)入道蓮智ともいい(定四七四頁)、安房国長狭郡東条の地頭で、極楽寺重時の家人と推定されている。
強盛な念仏の信者であり、建長五年(一二五三)四月二八日、日蓮聖人初説法の際激怒した景信は聖人を清澄寺から追放させた。
後に清澄寺の属する領家の後家尼の所領を、重時らと計り奪おうとしたので、訴訟となり度々問註の結果、聖人の助言をうけた領家側の勝利となった(『妙法比丘尼御返事』定一五六二頁)、(『清澄寺大衆中』定一一三五頁)。
このことは景信を立腹させ、聖人への怨を強め聖人の帰郷を妨害したのである。
領家の尼御前とは一説(『祖書證議論』巻一)に名越朝時の妻といわれ、夫の死後尼となり領地を支配したが女の身であるためか、景信にねらわれたのである(当時領地争いは多かった)。
聖人が味方された理由は『清澄寺大衆中』に「日蓮が父母等に恩をかほらせたる人なれば」(定一一三五頁)とあり、聖人の両親を世話し、また聖人の遊学期の後援者が、領家の尼であったからである。
この訴訟への味方は重時を激怒させ、『安国論』奏上と相俟って伊東配流となった。
赦免後初めて帰郷された聖人を文永元年(一二六四)一一月一一日景信は数百の兵を率いて宿怨をはらそうとして襲いかかった。
『南条兵衛七郎殿御書』に「今年も十一月十一日、安房國東條の松原と申す大路にして、申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられ候て、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものゝ要にあふものはわづかに三四人也。いるやはふるあめのごとし、うつたちはいなづまのごとし。弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事のてにて候。自身もきられ、打たれ、(略)うちもらされて」(定三二六-七頁)とあるような状況であった。小松原法難である。
殉死した工藤吉隆らの働きで聖人は難を逃れたが、景信はこの時落馬して程なく死亡したという。
《『日蓮聖人註画讃』、『本化別頭仏祖統紀』、『遺文辞典』歴史篇「東条左衛門景信(とうじょうさえもんかげのぶ)」の項、『日蓮辞典』「東条景信」の項、『昭和新修』別巻「東条左衛門尉景信」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人と東条景信」の項、『国史大辞典』一〇巻「東条景信」の項》