外国語による日蓮宗紹介
外国語による日蓮宗紹介
がいこくごによるにちれんしゅうしょうかい
外国語による日蓮宗紹介には羅什訳法華経及び御遺文の外国語訳・日蓮聖人の紹介・日蓮主義の紹介をも含めて考察する必要がある。
明治一九年(一八八六)南條文雄は“A Short History of the TwelveJapanese Buddhist Sects”(『日本仏教十二宗略史』)を仏教書英訳出版舎より出版した。
十二宗とは倶舎・成実・律・法相・三論・華厳・天台・真言・浄土・禅・真・日蓮をさし、本書は各宗の学者に原稿を依頼し、これを翻訳・編集したものである。
小林是純は日蓮宗の項目を担当した。
これを英訳による日蓮宗紹介の嚆矢とする。
明治四四年アーサー・ロイド(Arthur Lloyd)は『The Creed of Half Japan』(『日本国民の半数を支配する宗教』)をロンドンのスミス社より出版し、日本仏教を紹介した。
本書は三〇章より成るが、日蓮宗の紹介に二章を充て、第二四章において日蓮宗の教義を紹介し、第二五章に立正安国論の殆ど全部の訳文を載せている。
ロイドの日蓮観は、おおむね次の如くである。
「日蓮は仏教の使命を安国にあるとした。
当時の日本は災害相次ぎ、政情も定まらず、且つ対外的には蒙古襲来の危機にさらされていた。
彼は日本の仏教は各派間の抗争に明け暮れているのみで救国の力なしと見、純粋にして且つ活力のある仏教を打ち立てることにより日本を救おうとした。
彼は単なる空想家でもなく、又理性なき予言者でもなかった。
彼は自己の主張に関し常に十分な論理的根拠を用意していた。
彼は堅実な思想の持主であり、又効果ある説得力の所有者であった。
彼が当時の政治権力を批判し、又宗教権威に立ち向った態度は、仏教史上未だ曽つてなかったといえる。
インドの仏教はアショカ王やカニシカ王等の庇護の下に栄え、それらの諸王の外護を失うと印度教に席を譲った。
支那においても仏教が栄えた時代は仏教を外護した王朝の隆盛期だけである。
日本においても聖徳太子の出現までは仏教は見るものがなかった。
奈良時代の僧侶は殆ど凡て宮中に仕えた官吏であった。
平安期の天台真言両派の僧侶も藤原氏の臣下であった。
源平時代の僧侶も上皇や法皇の従者であった。
鎌倉時代に到っても禅僧は北条執権の政治的手先となった。
政治権力を批判したのは日蓮のみである。
彼は天に二日なく国に二王なしと叫び、幕府は野心的な臣下によって成立した政権であると批判した。
この論理は当時の仏教界にも向けられ、阿弥陀如来や大日如来を崇拝するのは教主釈尊をないがしろにするものであると批判した。
彼は四箇格言を唱え、そして迫害された」。
大正五年(一九一六)姉崎正治はアメリカのハーバード大学より“Nichiren, the Buddhist Prophet”(『仏教の予言者日蓮』)を出版し、日蓮の宗教を紹介した。
本書に引用され又は言及されている御遺文は凡て縮刷遺文録によっている。
その御書名は『法蓮紗』『立正安国論』『数機時国鈔』『持妙法華問答鈔』『月水御書』『南条兵衛七郎殿御書』『弟子檀那中御書』『種種御振舞御書』『開目鈔』『崇峻天皇御書』『四條金吾殿御消息』『寺泊御書』『富木入道殿御返事』『生死一大事血脈鈔』『草木成仏口決』『佐渡御書』『観心本尊抄』『諸法実相鈔』『如説修行鈔』『当体義鈔』『顕仏未来記』『光日房御書』『弥源太殿御返事』『筒御器鈔』『法華取要抄』『新尼御前御返事』『三世諸仏総勘文鈔』『身延山御書』『千日尼御前御書』『三大秘法禀承事』『妙一尼御前御消息』『撰時鈔』『諫暁八幡鈔』『秋元御書』『報恩鈔』『小蒙古御書』『曽谷入道殿御書』及び『上野殿母尼御前御返事』である。
大正一二年里見岸雄は“Japanese Civilization:Its Significance and Realization, Nichirenism and Japanese National Principles”(『日本の文明、その意義と顕現、日蓮主義と日本国民の原理』)と題する論文をロンドンのケガン・ポール社(Kegan Paul Ltd.)より出版し、日蓮主義を紹介した。
昭和五年(一九三〇)スートヒル(William Edward Soothill)は羅什訳法華経の抄法を“The Lotus of the Wonderful Law”の題名の下にイギリスのオックスフオード大学より出版した。
この抄訳は翻訳しない部分についてはその大綱を載せている。
昭和一〇年サー・チャールズ・エリオット(Sir Charles Eliot) の“Japanese Buddhism”(『日本仏教』)がロンドンのアーノルド社 (Edward Arnold and Co.) より出版された。
これは大正八年より七年間駐日英大使であったエリオット(一八六三-一九三一)の遺稿である。
本書は三篇より成り、第一篇においてインド及び中国の仏教史を概説し、第二篇において日本仏教史を概説し、第三篇において天台・真言・念仏・禅・日蓮の五宗を概説しているが、最後の日蓮宗の原稿はサンソム(G.B.Sansom)筆となっている。
エリオットの遺稿は日蓮宗を除く部分まで完成していたが、日蓮宗の部分が未完成であったので、当時英国大使館の館員であったサンソムが、第二篇日本仏教史中の日蓮宗の説明その他エリオットの他の著書に散説された日蓮宗の説明等を参照したものである。
エリオットの日蓮観は大要次の如くである。
「日蓮は当時幕府のあった鎌倉において開教し、幕府を批判すると共に仏教各宗を批判した。
彼は『立正安国論』を著わし、もし幕府が法華経に帰依しなければ、日本は外国から侵略されるであろうと予言した。
このため彼は迫害され、一時鎌倉を逃れたが、再び鎌倉に現われて布教した。
幕府は彼を伊豆に流した。
彼は伊豆において、彼のみが仏陀より委任された末法の教師であるという自覚に達した。
伊豆から赦免された後の彼の布教は更に熱意が加わった。
蒙古の国書が到来すると彼は『立正安国論』の予言が的中したことを幕府高官及び各宗の要路者に通知した。
彼は竜口法難にあい、ついで佐渡に流された。
彼は佐渡において上付菩薩再誕の自覚を得、崇拝の主要対象の文学的表現を案出し『開口鈔』や『生死一大事血脈鈔』其他多くの著作を著した。
佐渡より帰還後幕府は彼に妥協案を示したが、彼は彼の宗教による日本の統一を主張して譲らず、身延に隠棲し、日本を中心とする世界の宗教的統一の構想を練った。
彼は法敵に対しては天魔とか大妄語とかいう語を使用して仮借なき批判をし、ために反感を買ったが、信徒に対しては優しく親切であった。
当時流行した念仏信仰の特徴を柔という言葉で表現し得るとすれば、日蓮の宗教は念仏信仰に対する反動として起った剛の宗教ということができよう。
念仏信仰は当時の国民の不安に応える一つの解決策ではあったが、他面国民は剛の宗教を求めていたことも事実であった。
禅の興隆もその要求の現われと見ることができる。
日蓮の十字軍的な布教は多くの人々の心を捕えた。
彼が幕府に対し、彼の宗教を採用すること、及び他の宗教を弾圧することを要求した布教態度は、如何なる仏教国においてもその例を見ない。
彼は日本の生んだ最も顕著な熱情的宗教家である。
しかしその布教の成果は必ずしも目覚ましいものであったということはできない。
日蓮宗の歴史は真理の宣伝又はそのための戦いの歴史というよりもむしろ門下相互間の内紛の歴史であるといった方が妥当である。
現在日蓮宗は大宗門の部に属するが、その勢力において真宗や禅宗には及ばない。」
昭和一一年浜田本悠は“The Nichiren Sect,Footsteps of Japanese Buddhism”(『日本仏教の足跡、第一号日蓮宗』)を東京の宗教問題研究会より出版した。
昭和一六年江原亮瑞は『開目鈔』を英訳し“The Awakening to the Truth”という題名の下に東京の国際仏教協会より出版した。
この英訳には二名のセイロン比丘ソーマ(Soma)及びケーミンダ(Kheminda)が協力した。
昭和二二年高楠順次郎は“The Essentials of Buddhist Philosophy”(『仏教哲学の真髄』)をハワイ大学より出版した。
本書は一五章より成り、春四章より第一四章までの一一章において日本仏教一一宗を概説している。
一一宗とは倶舎・成実・法相・三論・華厳・天台・真言・禅・浄土・日蓮・新律をさしている。
日蓮宗の章においては『立正安国論』及び『開目鈔』に言及している。
昭和二六年ルノンドー(Gaston Renondeau)は、オランダの東洋学雑誌T'oung Pao(通報)に “Le Traité sur l'étate de Nichiren”(『日蓮の国家論』)と題する論文を発表し、その中に『立正安国論』『安国論御勘由来』『宿屋入道許御状』『與北条時宗書』『與宿屋入道書』『與平左衛門尉頼綱書』『與北条弥源太書』『與建長寺道隆書』『與極楽寺良観書』の仏訳を載せた。
また彼は昭和二八年ギメ(Guimet)博物館の “Bibliothèque d'Etudes”(『研究叢書』)に“La doctrine de Nichiren”(『日蓮の教義』)と題する論文を発表し、その中に『開口鈔』『観心本尊鈔』『諸法実相鈔』『草木成仏口決』『主君耳入此法門免與同罪事』『法華取要鈔』の訳文を載せ、また『十如是事』『守護国家論』『唱法華題目鈔』『教機時国鈔』『四恩鈔』『生死一大事血脈鈔』『兄弟鈔』『報恩鈔』『本尊問答鈔』『立正観鈔』『三世諸仏総勘文鈔』を紹介した。
ルノンドーの日蓮観は大要次の如くである。
「日蓮は教義的には殆ど凡て天台を踏襲して居り、何ら目新しいものはない。
日蓮が創出した教義といえば三大秘法であろう。
その第一は信仰の対象の表現としての本尊である。
日蓮の本尊は一個の人格ではなく、象徴的全体であり、普遍的仏陀である。
しかし彼は一方において釈尊を本尊とせよといって、この教義を破壊している。
第二は信仰の象徴化としての題目である。
正しい信仰とは法華経に説かれた仏陀の言葉を信じ、仏陀が我々に課した行法を修することを誓うことであるが、この信仰は唱題という簡単な方法によって表現することができるとする。
第三はやがて日本に建立さるべき仏教伝道の中心地としての戒壇である。
日蓮は戒壇建立は必ず将来実現されるであろうことを信じていた。」
昭和二九年村野宣忠は『観心本尊鈔』を英訳し“The True Object of Worship, Revealed for the first time in the fifth of five hundredcentury periods after the great decease of the Tathāgata”という題名の下にヤング・イースト社より出版した。
昭和三二年キャラウエイ(Tucker N. Callaway)は“Japanese Buddhism and Christianity”(『日本仏教と基督教』)と題する著書を新教出版社より出版し、救済の問題に関し、基督教と禅宗・真宗・日蓮宗とを比較論評した。
昭和三三年村野宣忠はセイロン(現スリランカ)の英文仏教百科辞典に収録のため執筆された鈴木一成の「日蓮」、望月歓厚の「題目」及び「観心本尊鈔の梗概」、塩田義遜の「立正安国論の梗概」を英訳し『The Nichiren Sect』と題してヤング・イースト社より出版した。
昭和四〇年アルフレッド・ブルーム(Alfred Bloom)は“Historical Significance of Nichiren's Buddhism”(『日蓮の仏教の歴史的意議』)と題する論文をヤング・イーストに発表し『立正安国論』及び『教機時国鈔』に言及した。
昭和四三年星野英宣は村野宣忠協力の下に“The Lotus Sutra and Nichiren”(『法華経と日蓮』)を愛知県実成寺より出版した。
文中に引用され、従ってその抄訳が発表された御遺文は『教行証御書』『諫暁八幡抄』『秋元殿御書』『下山御消息』『開目鈔』『如説修行鈔』『蒙古使御書』『立正安国論』『上野殿御返事』『船守弥三郎許御書』『南条兵衛七郎殿御書』『與北条時宗書』『與宿屋入道書』『與平左衛門尉頼綱書』『與北条弥源太書』『與建長寺道隆書』『與極楽寺良観書』『安国論奥書』『種種御振舞御書』『一昨日御書』『崇峻天皇御書』『四條金吾殿御消息』『土籠御書』『佐渡御書』『四條金吾殿御返事』『諸法実相鈔』『観心本尊鈔』『観心本尊鈔副状』『日女御前御返事』『本尊問答鈔』『報恩鈔』『富木殿御書』『妙法尼御前御返事』『妙一女御返事』『法華宗内証仏法血脈』『南條兵衛七郎殿御返事』『中興入道御消息』『小蒙古御書』『富城入道殿御返事』『松野殿御返事』『諸人御返事』である。
昭和四六年立正佼成会は羅什訳妙法華を“The Sutra of the Lotus Flower of the Wonderful Law”という題名の下に英訳出版した。
本訳文はもと加藤文雄が英訳したものをスートヒル(W.F.Soothill)が校訂し、更にシッファー(Wilhelm Schiffer)が校訂したものである。
昭和四七年ベヤド(Robert D. Baird)とブルーム(Alfred Bloom)は“Indian and Far Eastern Religious Traditions ”(『インド及び極東における宗教伝承』)と題する著書をハ―パー・ロウ(Harper & Row)書店より出版した。
本書において日蓮は次のように紹介されている。
「日蓮は、国に二王なきが如く仏教にも真実の経典は唯一である筈であるとした。
彼は汎く仏教を勉学した結果、法華経のみが仏教の最高の真理を教えるものであるという結論に達した。
彼は、一国の運命をその国民の正法護持という事実に関連させ、もし日本が正法に帰さなければ、日本は外敵によって滅ほされるであろうといった。
そして彼は自ら日本の柱であることを宣言した。
彼は彼自身が上行菩薩の再誕であると信じ、政府及び他宗に対して挑戦的な伝道をして迫害を受けた。
彼の教義は元寇に脅かされつつあった当時の日本の危機に対応することを意図したものということができる。
彼にとっては一仏教とは単に個人の救済に止らず、国家の安泰を目的とするものであった。
日蓮は宗教を国家の上に置き、国家の盛衰は正法護持の如何にあるとした。
彼の伝道方法の特徴は折伏にある。
折伏とは改宗の強制であり、攻撃的な邪法対治をいう。
彼は教理的には天台を踏襲したが、本尊として曼荼羅を創案した。
曼荼羅とは崇拝の対象を象徴的に表現した図式である。
彼はこれを本仏の意志に基くものとした。
彼によれば、本仏とは歴史的な仏陀の背後にある永遠の仏であるとする。
彼は又最澄に倣い、戒壇建立を志した。
これは国家として正法を受容せしめることを意図するものである。
彼は天台の一念三千の理法により、一切万物は仏陀そのものの表現であるとし、この仏陀と合一することを以って仏教の目的としたが、その方法は唱題にあるとし、天台流の禅法である止観行を斥けた。
日蓮の教義の特徴は天台の思弁哲学を一般人の要求に応じ得るように変改したところにあるということができる」。
昭和四九年村野宣忠は羅什訳妙法華を“The Sutra of the Lotus Flower of the Wonderful Law”という題名の下に英訳し、日蓮宗宗務院より出版した。
この英訳にはブライス(R. H. Blyth)、プルーデン(L.M. Pruden)、石川存静、戸田浩暁、兜木正亨、塚本啓祥、田賀龍彦、丸山孝雄、田村完誓、及川真介、望月良晃が協力した。
昭和五〇年リー(Edwin B. Lee)はMonumenta Nipponicaに“Nichiren and Nationalism.The Religious Patriotism of Tanaka Chigaku”(『日蓮と日蓮主義、田中智学の宗教的愛国主義』)と題する論文を発表して、田中智学の日蓮主義を紹介した。
昭和五一年ハービッツ(Leon Hurvitz)羅什訳妙法華を英訳し、“Scripture of the Lotus Blossom of the Fine Dharma”という題名の下にアメリカのコロンビア大学から出版した。
昭和五二年村野宣忠は『立正安国論』を英訳し“Establish the Right Law and Save Our Country”という題名の下に日蓮宗宗務院より出版した。
ペッツオルト(Bruno Petzold)は一八七三年に生れ、明治四三年(一九一〇)より昭和二四年(一九四九)死去するまで日本に滞在し、主として天台宗を研究したが、晩年に及び日蓮宗研究に没頭し、約二〇〇枚に及ぶ原稿を遺した。
その中に引用され、従って抄訳のある御遺文は『守護国家論』『災難対治鈔』『立正安国論』『四恩鈔』『教機時国鈔』『顕謗法鈔』『生死一大事血脈鈔』『草木成仏口決』『開目鈔』『寿量品得意鈔』『三大秘法鈔』『観心本尊鈔』『諸法実相鈔』『撰時鈔』『報恩鈔』『四信五品鈔』『三世諸仏総勘文鈔』及び『註法華経』である。
本原稿は昭和五三年“Buddhist Prophet Nichiren-A Lotus in the Sun”という題名の下に法華ジャーナル社より出版された。
なお平楽寺書店発行の法華経研究には多数の日蓮宗関係の論文が掲載されているが、その第一巻、第二巻、第三巻、第四巻、及び第六巻には村野宣忠筆の英文要旨がある。
(村野宣忠)