曽谷賜書
曽谷賜書
そやししょ
曽谷(蘇谷とも表記する)氏は下総地方における日蓮聖人の有力な檀越の一人である。
下総国八幡庄蘇谷郷に在住した武士で、越中にも所領を有していた。
富木氏や大田氏と共に早くから聖人の檀越となり外護に努めた。
聖人の遺文には曽谷入道・曽谷二郎入道の名が見えるが、文永八年(一二七一)頃に剃髪入道し、聖人が「法蓮上人」と呼んだ法蓮が入道のこととされている。
また入道の俗名は教信であり、この教信が聖人から「法蓮日礼(にちらい)」の号を授与され、蘇谷郷に一宇を建立して法蓮寺と号したことも伝えられている。
曽谷氏への賜書として『昭和定本日蓮聖人遺文』に収録されているものは一〇篇あり、その中で真蹟の現存するものは共与の二篇(一)・(二)を除いて三篇である。
賜書全体からみると、曽谷氏は聖人から漢文体で内容の高度な書状を送られていることからすれば、富木・大田両氏と同じく、聖人の檀越中でもすぐれた識字能力と仏教的知識をもっていたと考えられる。
以下『定本遺文』の順序に従って解説する。
なお曽谷氏の詳細な伝記については当該項目を参照されたい。→そやきょうしん(曽谷教信)
(一)転重軽受法門(てんじゆうきようじゆほうもん)(八九)→おおたししょ(大田賜書)の(二)
(二)曽谷入道殿御書(そやにゆうどうどのごしよ)(一五四)=一篇。
文永一一年一一月二五日、五三歳の聖人が身延から送られた書状。
真蹟断片三行が京都本圀寺に現存する。
加えて近時最末一紙全文の真蹟が新出し、従来の日付が二五日に、対告者が「曽谷入道殿」単独ではなく「土木入道殿并人々御中」と知れた。また、本文も修訂されることとなった。
本書には「自界叛逆御書」(本満寺録外)「与二子書」(日諦祖書目次)「与曽谷氏書」(日明祖書目次)等の異称がある。
本書は文永一一年の蒙古襲来の直後の書状で、自界叛逆・他国侵逼の国難の原因は、仏法の邪見、即ち慈覚大師円仁が法華経と真言三部経との勝劣を「理同事勝」と立てて、法華の正法を下した邪義によると評破し、真言は亡国の邪法であることを明らかにしたものである。
なお慈覚大師円仁の「理同事勝」論に対する批判は、本書を初めとし、これ以後の諸遺文において繰返し批判される。
(三)曽谷入道殿許御書(一七〇)→そやにゅうどうどのがりごしょ
(四)曽谷入道殿御返事(そやにゆうどうどのごへんじ)(一七一)=一篇。
文永一二年三月、身延から送られた書状。
真蹟は現存しない。
本書はその内容から「方便品長行事」とも呼ばれている。
本書は聖人が方便品の長行を書写して曽谷氏に送り、法華経の一々の文字はことごとく生身の妙覚の仏であるから、この経を持つことは仏身を持つことと同じであると説いて、霊山浄土を期して一心に信心を励むよう勧められたものである。
(五)法蓮鈔(ほうれんしよう)(一七五)=一篇。
建治元年(一二七五)四月、身延から送られた書状。
真蹟は身延曽存、但し真蹟断片が京都本圀寺他四所に現存する。(法蓮鈔『常円寺研究』五号新出一紙一三行)
本書には「烏龍遺龍御書」(日意目録)「遺龍御消息」(本満寺本)「与曽谷氏書」(祖書目次)「大長星鈔」「御難鈔」等の異称がある。
本書は曽谷氏が慈父の十三回忌に当って、供養の品々を身延の聖人に捧げ、慈父追善のために法華経五部を転読したこと、また慈父逝去の日より一三年間自我偈を読誦して聖霊に回向したことを報じたのに対し、種々に教示されたものである。
内容は法華経を信ずる者の功徳とこれを毀謗する者の罪禍を比較して、謗法の罪の重いことを示し、法華経の行者を供養する功徳は在世生身の仏を供養するに勝ると称揚する。
次いで曽谷氏の諷誦文を挙げて氏の孝心を讃嘆し、遺龍・烏龍の故事を引用して曽谷氏が一三年間読誦した自我偈の功徳が説かれる。
即ち法華経は一々の文字が皆生身の仏であるから、読誦した経文が仏体と現れて慈父の聖霊を救い、内典の孝経である法華経によって真の孝養が完成されると教示されている。
そして末法における法華経弘通の方法として折伏弘通の必然性を説き、折伏の結果蒙った種々の迫害留難を挙げ、終りに天変地夭によって聖人こそが末法の法華経の行者であり、兼知未萌の聖人であることを明示している。
(六)曽谷殿御返事(そやどのごへんじ)(二二六)=一篇。
建治二年八月三日、身延から送られた書状。
本書はその内容が成仏の用心を示していることから、古来より「成仏用心抄」とも呼ばれている。
真蹟は伝わらない。
本書の内容は成仏の要道は境智一如を説く法華経に限られ、爾前の諸経には成仏の義の無いことを明らかにし、この境智一如の妙法五字は本仏釈尊から本化上行菩薩に付嘱された末法の衆生成仏の要法であることが示される。
そして付嘱に総別の二義があることを明かして、他経他仏他師について成仏を求めることは大僻見であり、かつ謗法を呵責しない時は師檀ともに堕獄するは必定であると述べ、本仏・本法・本僧に依愚して成仏を期すべきことを厳しく誡められている。
即ち末法の衆生はその心田に本仏釈尊によって妙法五字の仏種を植えられたのであるから、この本仏と本法と本化に背いてはならない。
もし背いたならば聖人も後生を助けることは出来ない、と成仏の用心を教示されたものである。
(七)曽谷入道殿御返事(そやにゆうどうどのごへんじ)(二六七)=一篇。
建治三年一一月二八日、聖人五六歳の時、身延から送られた書状。
真蹟は伝わらない。
本書には「与曽谷氏書」「如是我聞鈔」等の異称がある。
内容は曽谷氏が書写した法華経の開眼によせて、聖人が経の初めの「如是我聞」の一句を解釈して、題目は一経の意を掲げたものであるから、妙法蓮華経の五字は法華経の体であり心であって、これを唱えれば自ら一経の功徳を得られるのである。
この妙法五字は末法の一切衆生を救い養う乳である、と唱題を勧められ、しかもこの妙法五字はインド・中国・日本、正法・像法・末法の三国三時の先聖が未だかつて弘めなかった法門であるが、今、末法に聖人が時機の宜しきを得て弘通するものであると示されている。
(八)曽谷殿御返事(そやどのごへんじ)(三三九)=一篇。
弘安二年(一二七九)八月一七日、聖人五八歳の時、身延から曽谷道宗(曽谷氏の嫡子四郎左衛門、入道して典宗、後に改めて道宗と号す)に送られた書状。
真蹟は伝わらなわらなかったが、近時冒頭部分三行断片が北海道幌延長応寺に見出された。
系年について建治二年説(境妙庵目録)、弘安二年説(日諦・日明の目録)、同四年説(日騰目録)等もあるが、大進阿闍梨死去の記述から弘安二年とするのが妥当であるとされた(『昭和定本』説)が、最近弘安元年説が有力に提起された。
本書には「焼米抄」(平賀本)「与曽谷氏書」「五味主鈔」「輪陀王御書」等の異称がある。
内容はまず曽谷道宗から焼米の供養を捧げられたのに対し、油と燈をもって師檀の密接な関係に譬えて感謝の意を述べている。
次いで一代聖教の中で諸経は五味、法華経は五味の主であるという教判を説き、法華経の題目は一切経の神(たましい)であり眼目であるから、この題目を唱えれば天神地祇も威力を増し国土を守護することを輪陀王と白馬の故事を引いて教示し、日本の仏教界の現状について真言・禅・念仏等の邪法が盛行しているため諸天の加護なく、三災七難が興起して国家は安穏でないと述べ、白馬は日蓮聖人、白鳥は聖人門下であると示し、題目を唱える者には必ず守護のあることを説いている。
最後に身延山中の盛況を述べ、供養の功徳の広大なることを称揚し、大進阿闍梨の死去も法華経流布の因縁となることを述べて慰諭されている。
(九)曽谷二郎入道殿御報(そやじろうにゆうどうどのごほう)(四〇八)=一篇。
弘安四年閏七月一日、聖人六〇歳の時、身延から送られた書状。
真蹟は伝わらないが、日興書写本が北山本門寺に現存する。
本書には「報曽谷氏書」(日諦・日明・日騰の各目録)、「曽谷入道殿御報」「破三大師」(朝師録外)等の異称がある。
本書の内容はまず法華経譬喩品の「其人命終入阿鼻獄」の文を解釈して、弘法・慈覚・智証・三階信行・道綽・善導を「其人」と断定し、日本の一切衆生は弘法・慈覚・智証の三大師の謗法に導かれて真言の邪義を信じたため皆無間地獄に堕ちることは必定であると詳述する。
そして今蒙古国の攻めを受けるのは謗法の現証である。
たとえ日蓮聖人門下であっても、身は国主に従うものであるから蒙古の難は免れないが、法華経信仰によって未来の成仏は疑いない、と国難に対する聖人門下の覚悟を教示し、曽谷氏の一層の信心を励まされている。
(一〇)成仏法華肝心口伝身造抄(じようぶつほつけかんじんくでんしんぞうしよう)(続三二)→おおたししょ(大田賜書)の(一)(六)
《『遺文辞典』歴史篇「転重軽受法門」「曾谷入道殿御書」「曾谷入道殿許御書」「曾谷入道殿御返事」「法蓮鈔」「曾谷殿御返事」「曾谷二郎入道殿御報」「成仏法華肝心口伝身造抄」の項》
(小松邦彰)
図版