妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

常不軽菩薩

じょうふきょうぼさつ #1969

常不軽菩薩

じょうふきょうぼさつ

「じょうふぎょうぼさつ」とも読む。
妙法蓮華経常不軽菩薩品第二十に説かれる菩薩をいう。
一般には常の字を省いて不軽菩薩といい、不軽品と略称する。
不軽品は不軽菩薩の故事を示して、法華経の行者を毀るものの罪報と護持するものの功徳とを得大勢菩薩に語る章である。
ち無量阿僧祇の昔、大成国に威音王仏がいたが、滅後像法の世に増上慢の比丘たちが大いに勢力を得るに至った。
に不軽菩薩と名づける一人の菩薩が現れて、比丘衆に出逢うごとにこれを礼拝して「我れ深く汝等を敬う。敢えて軽慢せず。所以は何ん。汝等は皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べければなり」と讃歎し、かつ礼拝のみを行って、経典を読誦することを専らにはしなかった。
のみならず、遠くの比丘等を見ても、また更に往って、前述のごとく讃歎し礼拝した。
四衆の中の心が清らかでない者は、不軽菩薩の行為に対して瞋りの心を起して悪口罵署し、甚だしきに至っては杖木をもって打ち、瓦石を投ずる者さえあったが、それでも不軽菩薩は礼拝歎の行を止めようとはしなかった。
そもそも不軽菩薩とは増上慢の比丘たちがつけた名前であって、われわれに向って「我れ汝等を軽しめず」といい、かつ「当に作仏することを得べし」などと虚妄の授記を与えるのは、われわれ比丘たちをからかっているのだと受取って、逆に菩薩の比丘を常不軽菩薩と軽賤して呼んだのである。
不軽菩薩は命終せんとする時、空中に法華経の偈を聞き、これを受持したので、六根清浄の功徳を成就し、その結果、更に寿命が二百万億那由佗歳延びて、広く人々のために法華経を説き、これを聞いた増上慢の比丘たちは皆信伏し随順したのである。
不軽菩薩は命終の後、二千億の日月燈明仏及び二千億の雲自在燈王仏に仕え、法華経を受持・読誦して他のために説き、かつ諸仏を供養したので、遂に成仏することを得た。
この不軽菩薩とは誰あらん、今の釈迦牟尼である。
また増上慢の比丘たちは不軽菩薩を軽賤したため、二百億劫三宝の名を聞かず無間地獄の大苦悩を受けたのであるが「この罪を畢おえること已(おわ)りて」(長行)のち、不軽菩薩の教化を受けて成仏することができた。
その増上慢の比丘等とは、今、ここに集っている中の跋陀婆羅等の五百の菩薩と獅子月等の五百の比丘と尼思等の五百の優婆塞であるという。
かくて最後に「此の故に如来の滅後に此の経を受持読誦解説書写すべし」と勧めるのである。
不軽菩薩が説いた「我深敬汝等、不敢軽慢。所以者何。汝等皆行菩薩道、当得作仏」の二十四字は、世親の『法華論』(『正蔵』二六巻九頁a)には、人々に仏性のあることを示した典拠であると説かれている。
また不軽菩薩の行為はいわゆる「折伏逆化」であって、人々をして悪口罵詈せしめることにより仏縁を結んで、成仏の種を植えしめることになるために、日蓮聖人は下種折伏をもって弘経の指針としたのは、この不軽菩薩に学ぶところが大であるといえる。

まず、日蓮聖人と不軽菩薩との忍難の問題についてである。
法華の信仰にひたむきに純粋になろうとすればするほど、他信仰と衝突して、迫害を受けねばならぬ度合が強くなるのも道理である。
従って法華経にはこの経を受持することの困難さ、受持する者に与えられる迫害の熾烈さについて詳細に説明している。
例えば宝塔品(六難九易偈)・勧持品(三類強敵偈)・不軽品のごとくである。
そして日蓮聖人もやはり前述の経文を『開目抄』(定五五七頁)・『顕仏未来記』(定七四〇頁)等に引用されている。
それならば、聖人は自己と不軽菩薩との難をどのように述べているのであろうか。
受難については佐渡・身延期を問わず遺文全般に説かれているところであるが、『報恩抄』には「去ぬる弘長元年辛酉五月十二日に御勘気をかうふりて、伊豆の国伊東にながされぬ。又同じき弘長三年癸亥二月二十二日にゆりぬ。其の後弥々菩提心強盛にして申せば、いよいよ大難かさなる事、大風に大波の起るがごとし。昔の不軽菩薩の杖木のせめも我身につみしられたり」(定一二三七頁)と記されている。
聖人は自身と不軽菩薩に共通する法難を媒介として、不軽菩薩に対して緊密な精神的親近感を抱き、現前の法難という事実に直面してこれを正当化し、自身を慰め、発奮されるのは、不軽菩薩の本地である教主釈尊さえもこのような難行苦行をされたのだという実以外にない。
つまり聖人にとって不軽菩薩の忍難こそが心の糧であったと考えられる。
更に末法法華経の行者のための仏の未来記、末法勧励と判断される文証的根拠としては『寺泊御書』の「過去の不軽品は今の勧持品。今の勧持品は過去の不軽品也。今の勧持品は未来不軽品為るべし。其時は日蓮は即ち不軽菩薩為るべし」(定五一五頁)であり『四条金吾殿御返事』には「但し三類の大怨敵にあだまれて、二度の流難に値へば、如来の御使に似たり。心は三毒ふかく、一身凡夫にて候へども、口に南無妙法蓮華経と申せば如来の使に似たり。過去を尋ぬれば不軽菩薩に似たり。現在をとぶらうに加刀杖瓦石にたがうなし」(定一六六八頁)が挙げられる。
ち「恐怖悪世中」の未来記としての勧持品偈頌と、過去の本事としての不軽とが迫害を述べる説相において極めて似ているところから、その法難を交点として、末法勧持の勧持品と不軽品とを同一視し、不軽品をもって未来の勧持なりと押さえられたに違いない。
しかも両品の関連について言及された人は一人聖人のみであるために、不軽品の未来勧励を真に強く主張し得る下地を備えているのは聖人一人であることになる。
そして、この両品が忍難を媒介として連結されたということは、明らかに聖人自身の忍難生活が法華経の多難な弘通生活を述べる場面において、異常な注意を注がしめたに他ならない。
そうであるならば、聖人は自己の忍難弘通をどのように評価されたのであろうか。
聖人は『神国王御書』に「今日蓮は日本国十七万一千三十七所の諸僧等のあだするのみならず、国主用ひ給はざれば、万民あだをなす事父母の敵にも超へ、宿世のかたきにもすぐれたり。結句は二度の遠流、一度の頭に及ぶ。彼大荘厳仏の末法の四比丘並に六百八十万億那由佗の諸人が普事比丘一人をあだみしにも超へ、師子音王仏の末の勝意比丘の無量の弟子等が喜根比丘をせめしにも勝れり。覚徳比丘がせめられし、不軽菩薩が杖木をかほりしも、限あれば此にはよもすぎじとぞをぼへ候」(定八九〇-一頁)と、『曽谷二郎入道殿御報』に「爰に日蓮彼依経に無き由を責るの間、弥々瞋恚を懐て、是非を糾明せず。唯大妄語を構えて、国主国人等を誑惑し日蓮を損ぜんと欲す。衆ケ之難を蒙ら令るのみに非ず、両度の流罪剰さへ頸の座に及ぶ是れ也。此等の大難忍び難き不軽の杖木にも過ぎ、将た又勧持の刀杖にも越たり」(定一八七五頁)と述べられている。
このように不軽の難を凌駕するとさえ思える法難をつぶさに体された聖人は、持経者の忍難の記文を求めるにおいて、不軽品ではものたらずして、勧持品をも必要とされたのである。
また苦難を蒙らねばならぬ由も、勧持品では「我不愛身命但惜無上道」とあるのみで、その詳細は不軽品によらねばならない。
かくして聖人の体験は勧持品と不軽品との不不離の関連を必然的に要求するに至らしめたのである。
ここにおいて不軽菩薩の難と日蓮聖人の難とは同一と見られるのである。
これを「紹継不軽跡」(『聖人三世』定八四三頁)という。
換言するならば、不軽菩薩と日蓮聖人の一生は因行においても、得道においても同じ道を歩んだことになると思われるのだが、相違する点はただ法難の種類である。
それは「刀杖」と「杖木」との違いである。
聖人は不軽菩薩に刀難を認められなかったのである。
もし不軽菩薩以上に法難色を強くし、不軽菩薩の行が法華経の如説修行として正当化されるならば、聖人自身の行も当然閻浮提第一の如説修行者であると思われたに違いない。

第二に注目すべきことは、不軽の忍難の由を過去の誹謗正法と考え、「その、畢(お)え已(おわ)りて」(偈頌)の句の意味をそこに求めたことである。
『開目抄』に「不軽品に云く、其畢已等云云。不軽菩薩は過去に法華経を謗し給ふ罪身に有ゆえに、瓦石をかほるとみへたり」(定六〇〇頁)と示されている。更に先に述べたように、自己を不軽菩薩に擬える聖人は、迫害を過去世の謗法によって起ると考え、迫害を忍受することによって、今生で滅を果たそうとされたのである。
その由を『転重軽受法門』では「不軽菩薩の悪口罵詈せられ、杖木瓦礫をかほるも、ゆへなきにはあらず。過去の誹謗正法のゆへかとみへて、其罪畢已と説れて候は、不軽菩薩の難に値ゆへに、過去の滅するかとみへはんべり」(定五〇七頁)と示されている。

第三に過去の不軽菩薩と現在の聖人との因行が一で、今の聖人は忠実に不軽の跡を踏襲していることを見てきたが、もし不軽菩薩の証果が経文に明記されているとすれば、当然聖人も作する筈である。
不軽品には不軽菩薩の作仏に関して「この経典を説きて功徳を成就して、当に仏と作ることを得たり」とあり、しかも「その時の常不軽菩薩は豈、異人ならんや。則ちわが身これなり」とあるから、不軽菩薩的因行は寿量仏果を顕現するということになる。
つまり聖人は不軽品によって自己の作を確信していたものと思われる。
ゆえに『波木井三郎殿御返事』に「不軽菩薩既に法華経の為に杖木を蒙りて、忽に妙覚の極位に登らせたまひぬ。日蓮此経の故に現身に刀杖を被り二度遠流に当る。当来の妙果之を疑うべしや」(定七四七頁)と述べ『四条金吾殿御返事』には「過去を尋ぬれば不軽菩薩に似たり。現在をとぶらうに加刀杖瓦石にたがうなし。未来は当詣道場疑ひなからん歟」(定一六六八頁)と示されている。

終りに上行菩薩との関連について述べると、なにゆえ聖人は上行等の地涌の菩薩に注目されたのであろうか。
佐渡流罪以前の鎌倉・房総での布教活動、そして、それに伴う迫害は佐渡在島中の思索と内省(特に『開目抄』述作の時に象徴される徹底的な検討)の結果、法華経の品々の指し示すところ、即ち、宝塔・勧持・涌出・神力と押さえてみる時、上行等の地涌の菩薩でなければ勧持品の二十行の偈の修行は耐えられない。
つまり勧持品の三類の強敵を忍耐できるものは本化(自己の擯出・流罪・死罪・弟子の入牢、教団崩壊の危機という宗教的体験に対して、法華経的反省を佐渡流罪中に加えることにより〈『開目抄』〉、法華経の流布すべき正時は逆謗充満の末法当今であり、その末法に受生した日蓮こそ「地涌千界教主釈尊初発心の弟子」〈『本尊抄』〉、つまり本化であるという自覚に到達した)上行等の地涌の菩薩である。
翻って神力・涌出・勧持と逆に押さえてみると、の滅後に法華経を弘通するものは必ず三類の強敵にあう。
それ故その迫害を忍受することのできるものは、本化上行等の地涌の菩薩を置いては他にはない。
従って自分こそは久遠来の釈尊の弟子である本化上行等の菩薩であり、法華経を真正に説き示す使命を帯びて末法に遣わされた「如来使使」であるという認識、いわゆる上行としての自覚を所有するに至ったということである。
それならば何が縁となって上行及び紹継不軽跡のかかる自覚を聖人に与えたのであろうか。
それはいうまでもなく、自己に対する三類の強敵が上行自覚を促し、自己の蒙る「杖木瓦石」・「口罵詈」が不軽との類似を確信せしめたのであるから、その縁となったものは法難である。
更に自己を不軽菩薩に擬える聖人は、転重軽受の法門にいう現世において過去の罪を滅するためには折伏行によって懺悔滅罪を計ることが、如説修行者として仏果(作仏)を得るということになってくるが故に紹継不軽跡の自覚は自行即化他の自行に当り、この自覚こそが自行の中心的役割を果すことになるのである。
そして、仏果を得た如説修行者は、如来使・仏使・上行としての自覚をもって、化他行を専らに行ぜられたのである。
山川智応『日蓮聖人の実現の宗教』、浅井円道「五綱中師判より眺めたる常不軽菩薩と宗祖の関係」『大崎学報』一〇〇号、中條暁秀「不軽と上行」『棲神』四九号、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人と不軽菩薩」の項、『遺文辞典』歴史篇「常不軽菩薩」の項、『日蓮辞典』『岩波仏教辞典』「常不軽菩薩」の項
(中條暁秀)

リンク

← 事典トップ