嘆徳文
嘆徳文
たんどくぶん
人の徳業を讃歎する文章の意。
通常は死者の経歴・業績・徳行などを述べてその生涯を顕彰し、併せてその死を悼むことを主たる内容とし、葬式のとき導師または式衆中の音声佳良な僧が棺前で読みあげる。
その作り方は、まず諸尊を勧請して挙式の趣意を表白し、然る後に「状を案ずるに」と発端して本題に入るのを一般的な形式とする。
僧侶共は引導文を用いないので必ず嘆徳文が諷誦されるけれども、在家の葬式では引導文だけでよい場合が多く、嘆徳文は嘆揚に価いする徳業等のある人に限って用いるべきである。
また導師が引導・嘆徳を併せ行う場合は、まず遺徳を称嘆して後に教訣を授けるのが普通の順序である。
葬式の時間・式場の状況・参列者の弔辞の有無などは、嘆徳文作製に当って、その内容や長短を決定する上で、あらかじめ知っておかねばならぬ条件である。
作文上の用心については「慶弔文作法要領」(日蓮宗伝道部『昭和慶弔文例集』附録)等を参考されたい。
→けいちょうぶん(慶弔文)左に僧俗の嘆徳文を一例ずつあげる。
大牙院日国上人嘆徳文
南無正像未弘大曼荼羅御本尊、南無末法唱導師本化上行高祖日蓮大菩薩、宗門代々如法弘通の先師等、悉皆慈悲影現道場証知照鑑。
上来現前の清衆と共に一会の法莚を張り、謹しみ敬って大乗妙典を読誦し、以て本増寺中興開山・本妙寺、本住寺開山大牙院日国上人本葬の式に擬す。
某宗務統理の職に在るを以て、来って式を督し、上人の行実を摘み、以て其の遺徳を嘆揚す。
状を案ずるに、上人、俗姓は砂子田、幼名は直次郎。
明治三十五年十一月二日岩手県和賀郡東和町の農家に生まる。
大正九年十二月十二日、宿縁薫発し、本山孝勝寺貫首柘植海寿上人に就いて得度し、名を瑞豊と改め、大牙院日国と号す。
上人、昼は師の下に在って給仕に努め、夜は仙台市高等予備校に入って学業に励み、大正十三年三月其の課程を卒る。
爾来、身を孝勝寺に置いて寺門の興隆に力を竭すと共に布教伝道に従ひ、仙台市郊外に多数の改宗者を得て伝道会を組織す。
越えて昭和十四年十月、岩手県大船渡市盛町に日蓮聖人鑽迎会を結成し、立正教会を創立す。
是より先、昭和九年大船戸市大船戸町に二町三反歩の山林の寄進を得て、一宇を建立したるも、時の国法は、新規寺院の設立を許さず。
上人、八方に奔走し、昭和十七年十二月に至り、東京池上本門寺末本増寺名儀を千葉県より移転再興するに及んで、乃めて寺号を公称するを得たり。
三陸海岸の南端、本化の法城厳として聳ゆ。
関係者の歓喜や知るべく、上人の苦心や思ふべし。
檀信徒の上人を推して本増寺中興開山と称すること宜なるかな。
然りと雖も、上人の正法宣布の熱意は、これを以て足れりとせず、昭和二十一年八月故郷東和町に本妙寺を開創し、更に昭和三十年六月住田町に本住寺を建立し、共に其の開山となる。
則ち一代にして善く三所に新寺を建立せられたり。
鳴呼、偉なるかな其の法勲。
而して、上人の足跡は、南は仙台市より北は岩手県南部に及び、其の教化に浴する者は実に一千五百余家、其の遺徳を慕ふ者は算数(さんじゆ)の能く知る所にあらず。
是れ正に桑門の儀範なり。
是を以て昭和四十五年二月六日、宗門は上人を僧正に叙して其の法功に報いたり。
上人、資性温厚、ひたすら市民の幸福を念願し、常に市民の好き相談相手として信頼と尊敬とを一身に集む。
特に、保護司として青少年を温かく導き、戦後は本増寺に立正青年会・立正同志会を組織し、帰趨に迷ヘる青年の心に灯明を点じたる功績甚だ大なり。
斯くの如く、上人昼夜に精進し、老の将に至らんとするを知らざりしに、本年四月三日四大の不調を覚え、入院加療に万全を期したるも、気力(けりき)つひに還復せず、同月十五日朝安詳として化を他界に遷さる。
世寿七十一歳、法臈五十三年。
顧みるに、今や邪教外に跋扈し、白法内に隠没せんとす。
宗門ここに鑑みる有り、護法運動を起し統一信行を通じて宗徒の自覚を強固ならしめんとす。
此の時に当って上人の如き一大布教家を失ひしは、独り当山檀信徒の悲嘆に止まらず、亦宗門の深く哀惜する所なり。
冀はくは、上人の覚霊、時に此の上に還来して広く諸の群生を導き、別して当山に冥護を垂れ、密に檀信徒を利益し給はんことを。
南無妙法蓮華経
維時昭和四十七年六月十一日
日蓮宗宗務総長
権大僧正 某 和南
堅正院法持日清居士嘆徳並引導文
南無久遠実成本師釈迦牟尼仏、南無末法唱導師高祖日蓮大聖人、新井山開山大宣院日讃上人以来歴代の先師等、来臨影嚮証知照鑑。
本日、我が山檀徒總代故内掘清君、法名堅正院法持日清居士葬送の儀に臨み、居士が行実の一端を摘んで其の遺徳を嘆揚し、併せて悟道の要文を示して教訣と為さんとす。
状を案ずるに、居士は明治四十三年三月十一日、故内堀仁兵衛氏の嫡男として当家に生まる。
長じて大泉尋常小学校より所沢実務学校に進み、大正十四年其の業を卒るや、家業を助くる旁ら穀物検査員として勤務す。
次いで、現役兵として満州独立守備隊に入隊、支那事変の起るや中支派遣軍に属して各地に転戦し、功を以て陸軍歩兵曹長に昇進し、勲七等白色銅葉章を賜はる。
敗戦の後は、農業に従事する外、保護司として地域社会に貢献する所少なからず。
而して、特筆すべき一事は、大泉農業協同組合に於ける功績なり。
即ち、昭和四十一年六月監事となり、同四十四年六月専務理事に選ばれ、爾来三期重任して現在に至るまで、組合長加藤弥平次氏を補佐して其の任を全うせらる。
大泉農業協同組合をして全国有数の組合に発展せしめたる苦心と功績とは、組合史上不滅と謂ふべし。
居士は機を見ること敏にして、常に他に一歩を先んず。
夙に蔬菜より芝作への転換を断行し、又大泉地区の都市化を予見して富士山麓に大農場を経営し、更に昭和四十一年にはタイヤ・ガソリン等の販売を業とする有限会社内堀商会を設立して代表取締役に就任する等、一として其の明証に非ざるは莫し。
然るに本月一日未明、忽焉として霊山の旅に出立し畢んぬ。
行年六十有五歳なり。
抑〻堀家は当地の素封家にして、父祖共に我が大乗院の総代・世話人を歴任す。
今より二十余年前、某職を大乗院に奉ぜし時、居士は当地区の世話人なりき。
越えて昭和四十一年九月三十日、檀徒総代に選任せられて現在に及べり。
此の間、庫裡新築・宗祖降誕七百五十年慶讃事業等に尽力し、又昭和三十五年四月八日大乗院護持会の設立せらるるや会計となり、次いで副会長に就任し会の運営発展に貢献せられしところ甚大なり。
某頃日(このごろ)密に思へらく、来る昭和五十六年は宗祖大聖人の七百遠忌と開山日讃上人の六百遠忌とに正当するを以て、一大記念事業を起さんと。
若し一度び之を実行に移さんか、居士の識見力量に俟つところ極めて多かるべきに、今その急逝に遭ひ、遂に共に相謀るを得ず。
暗夜に灯を失ひ盲人の杖を離れたるが如し。
痛恨何ぞ堪へん。
居士は、昭和九年浜野シズ女を迎へて室となし、三男一女を挙ぐ。
今皆巳に家を成す。
而して、固より家に恒産有り、人に恒心有り、何の足らざることか之れ有らん。
然れども、老母の存する有つて齢八十六、今にしてこの悲運に遭遇す。
其の心中を推察すれば、一掬の涙無き能はず。
鳴呼悲しいかな。
居士、篤く本化の大法を信受し、寺門の興隆に寄与せらる。
直至道場、何ぞ疑ふべけんや。
然りと雖も、今この永訣に臨み、大乗妙典の一章と祖訓の一節とを諷し、以て教訣と為す。
諦聴諦聴、善思念之。
法華経第六の巻に日く、如来如実知見三界之相。
無有生死若退若出、亦無在世及滅度者。
非実非虚、非如非異、不如三界、見於三界。
如斯之事、如来明見、無有錯謬。
乃至毎自作是念、以何令衆生、得入無上道、速成就仏身。
如来滅後五五百歳始観心本尊抄に日く、今本時娑婆世界、離三災出四劫常住浄土。
仏既過去不滅、未来不生、所化以同体。
此即己心三千具足三種世間也。
霊や、生々にも之を忘るること勿れ、世々にも之を忘るること勿れ。
南無妙法蓮華経
維時昭和五十年七月三日
新井山大乗院第三十九世 某 和南
《『唱諷集』、『嘆徳集』、『諷誦嘆徳要文集』、『妙宗慶弔文例』、『昭和慶弔文例集』》 (戸田浩暁)