祖山中心の制度
祖山中心の制度
そざんちゅうしんのせいど
祖山中心の基本的な信仰帰依を単に祖山祖廟の尊崇、奉仕にとどめず、これを宗門経綸の上に活現し「祖廟の霊地身延山」を中心に強固な宗門形態を組織しようとしたのが祖山中心の制度化である。
「祖山中心」とは、(一)本朝の霊山、(二)棲神留魂の山、(三)祖廟の聖地である身延山を本宗の中心とする思想であり信仰であって元来「祖廟中心」と同義語として扱われてきた。この考えが信仰の上で顕現されてきたことは、先師の祖廟崇敬奉仕の美挙や、勅額降賜の際における門下各派の態度等によっても歴史的に明らかである。
更に身延山の尊貴性を認めた事例は少なくない。
明治五年(一八七二)四月、政府が「三条教憲ヲ遵奉シテ布教スベキコト」を命ずるため、身延日健に出頭を求めた際代理を出頭せしめたにかかわらず、六月一三日日蓮宗全体の取締役としての「大教正」に日健を任じている。政府が東京近くの池上、中山を選ばなかったことは遠く日蓮聖人の遺誡を温ねるまでもなく「身延が全日蓮宗門の中心」であるという世間一般の常識を示すものであろう。
宗門内においても同年九月行われた五山盟約に「五山会合ノ節ハ世位ニ拘ラズ身延ヲ以テ席首ト致ス」とある。
明治八年六月の第一次本山会議においては「身延山久遠寺ヲ以テ祖山ト稱シ」と定め、京都本山本満寺住職久保田日亀をして「(身延ヲ以テ祖山ト為ス)予此ニ至リ覚エズ節ヲ撃ツテ曰ク根幹動ゼズ万枝ヲ統ブ(略)実ニ祖山ノ祖山タルヲ奉行セント欲スレバ各本山ノ名称ヲ廃シ(略)天下一宗ノ主宰ヲ定ムト謂ウベシ」と共感せしめている。
明治一〇年一月七日管長石川日大に宛てたこの意見書が本山から出たことは「身延中心の制度化」が既に萠芽していたことであり後の諮問総会事件、一六両条の争いと無関係であり得ない。
次いで翌一一年四月の第二次本山会議においては、身延を「総本山」と称することとし、「管長受持の寺跡」と定めた。
この決定に基づき管長釈日禎は退き、身延の吉川日鑑が就任(四月一八日)している。この事実は既に単なる祖山尊崇でなく制度化への第一歩である。
惜むらくは明治八年身延が炎上しているため、その復興途上にあり、加えて日蓮聖人の六〇〇遠忌を明治一四年にひかえているため、日鑑は一応受けたが身延の復興を急務とし一〇月、久遠寺前住職の新居日薩と交替し、五山交番制を希望した。
これに対し池上の小林日昇は明治一二年一月一八日身延日鑑宛「我等の所存は人境一致、総本山と管長は即ち依正にして(略)交番の儀当山に於ては御断申上候」と返翰し、身延山管長受持の寺跡決議を飽く迄尊重している。
このように第二次本山会議において管長身延受持が決議されるほど身延中心の思想は横溢していたようだが、在来の伝統意識からこれを不服として反抗を続けるものが西京の本山になかったわけではない。
かくして日薩のあと京都妙顕寺の福田日耀が就任の翌明治一七年八月太政官布達第一九号が布達され、宗制寺法等を定めて内務卿の認可を必要とした。
そのために開かれたのが第三次本山会議である。
管長については「身延受持が圧倒的であったが、本化正嫡を誇る本圀寺(釈日禎)は「身延永管長」による身延の支配下に置かれることを欲せず、(総本山の総は尊崇の称呼にして統轄の義にあらず)として東西分離両管長の憂いさえ生じたので宗制第三条は「管長ハ総大本山以下四十四箇ノ本山現職中ヨリ投票公撰シ満三ヶ年ヲ任期ト定ム」と規定した。
次いで憲法発布、国会開設の期を近くして、急速度に進展する世運に対応するため管長三村日修は宗規の大改正を決意し、宗規改良議案を作整して明治二一年八月二三日諭告を発して広く各地方に諮問した。一〇月二〇日から芝大教院において小林日董を議長として総会が開かれた。いわゆる「諮問総会」である。大勢の赴くところ大多数をもって原案が支持され一部修正可決した。
その結果「管長は総本山住職の受持」「管長の名称は法主」「宗務院は身延山」等が決ったが、反対派の陳情、国情の騒然等があり内務省の認可が得られなかった。
加えて本間海解、佐野前励らの「日蓮宗革命趣意書」に見られる廃本合末論による徹底的祖山中心運動が展開されたのが一層本山派との対立関係を激化し、一六両条の争いは「扶宗同盟会」(後に為宗会)対「同盟本山」の激斗争乱と化し、宗内は異常な混乱に陥った。
この間、薩・鑑すでに亡く日修もまた明治二四年五月一七日憂いを残して遷化した。伝えられる遺言は悲痛哀切を極めたもので「目的の達成を見ず、剰え宗門の争乱を惹起し、その和平を見ずして逝くことは実に遺憾である。我が死後我が菩提を弔ふ者は、この大案達成の事を以て我が墓前に報ぜよ。これ我に対する無上の回向である」とあって、諮問総会で決議を見ながら施行できなかった無念さが滲んでいる。
結局、明治二五年和解成立し「管長ハ、総大本山以下、四十四箇本山現職中ヨリ投票公選トシ、任期ハ満三年トス」となった。
大正三年(一九一四)「管長ハ、総大五山中ヨリ、本山ノ選挙ニヨリ就職ス」、大正五年「四十四箇本山ヲ被選人トシ、各本山末寺十等以上ノ現住職ニ於テ選挙ス」と改め、大正一二年「十等以上」を「五等以上」に改正、大正一三年の第一八宗会で政府の普選に準じて、被選資格はそのまま、選挙人を全寺院住職に拡大した。
日修の遷化後四〇年、昭和六年(一九三一)の勅額拝戴を機に、酒井日慎の祖廟三願があり、「挙宗一致、祖廟中心ノ宗是ヲ興起シテ一宗崇敬ノ標的ヲ確立セン」によって祖廟中心の制度化運動は再出発し次第に具体化するに至った。
即ち同年の日慎による「祖廟中心ノ宗風興起ニ関スル諭達」、昭和八年の法主望月日謙提唱による「法主公選二関スル第一一回身延門末会ノ決議」、昭和一〇年同法主の「祖廟中心宗是確立ニ関スル管長神保日慈宛建白書」、同年三月第三〇宗会における「祖廟中心制度調査会ノ成立」と進展し翌一一年調査会に対する第一二回身延門末会の答申「身延山法主ハ一宗ノ公選ト為シ、法主即管長ノ制度ヲ樹テ、以テ祖廟中心ノ宗是ヲ確立スベシ」は、調査会の意見と一致をみるに至り、昭和一三年の第三三宗会において「法主即管長」による祖廟中心の制度が確立した。
即ち『日蓮宗法規』宗規第二章第四条「管長ハ総本山大本山住職ヲ以テ被選人トシ、一般寺院住職ノ選挙二依リ政府ノ認可ヲ得テソノ職二就クモノトス」が改められて「管長ハ総本山久遠寺住職タル人、政府ノ認可ヲ得テ其職二就クモノトス」となった。
これを法主即管長制といっている。
日鑑の不運、日薩の自重、日修の悲痛、為宗会幹部の大量処分等六〇余年の歴史を秘めての懸案だけにその成立は宗を挙げての感激であったことが『祖道復古』(昭和一三年六月一七日竹田智道編集発行)に詳細記録されている。
しかしながら、この祖山中心の制度は単に法主即管長にとどまり、法主が管長であることによって可能とされていた「身延山法主を一宗の公選とし、身延山の財政を宗門に移し、身延の全機関を宗門的にする」までには至らなかった。
昭和一五年本山会議は、永年続いた本末制度の解体を明らかにしたが、翌一六年三派合同と共に「法主即管長」の定めは『日蓮宗宗制』から完全に消えさった。
即ち同年開催の第三七宗会において「管長ハ総本山及大本山ノ住職ニツキ宗機顧問会ニ於テソノ候補者一名ヲ推薦ス」と改められている。
戦後は「管長は一宗の選挙により之を定む」と民主化の方向に従って更に改正された。
昭和二一年管長に就任した身延山法主深見日円は、その就任を仏祖任運の冥慮と信解し、奉告文に「祖廟の尊厳を制度の上に具現し(略)」とその実現への努力を誓い、就任挨拶にも立候補の目的の一つは「宗祖大聖人が色心の二法を留め給う霊地たる身延の尊崇性を制度の上に具現すると同時に身延を身延の身延とせず、一宗の身延として全宗門に解放すること」にあるとして祖廟中心の制度化を強調している(『改新宗報』第二号)。
この第一歩が翌二二年の第七宗会で制定を見、六月三〇日の管長諭達に示された「迎霊簿の制度」であり「身延山燈明会」の結成であった。
しかしこの制度は迎霊簿志納金を大学復興資金に充て、大学において調製するようになったことから自然消滅するに至った。
次いで昭和二四年管長制の廃止があり、続いて昭和二六年第一三宗会において開宗七〇〇年を目指し宗本一体の体制による祖山中心の制度が確立した。即ち祖山の法灯を継承する者は日蓮宗法主であって、護法委員会の推戴によって就任し、全宗門の儀表として祖廟に常随給仕することになった。法主を補佐する者として六人の長老がおかれた。
次に護法委員会が選考した候補者について選挙された総監のもとに宗務及び山務を鞅掌する宗務司監山務司監がそれぞれ設けられた。
総監は日蓮宗及び身延山久遠寺の主管者であって宗務及び山務を総理した。
なお宗会を廃止し、宗務所長の互選による一七人の参与及び二人の参議で組織する参与会を設けて、宗制の審議、制定、予算の決定を行う議決機関とし宗務院の主たる事務所を身延山に定めた。
更にこの宗本一体の制度施行に伴い、身延山と日蓮宗の慶讃会を一本化して開宗七〇〇年慶讃会とし、事務局を整備、植林券を有力な財源として、翌二七年に迎える立教開宗七〇〇年の慶典に対処した。
しかしこの制度も昭和二九年第五回参与会及び第六回臨時参与会を最後に、管長制(公選)及び宗会の復活を求める世論の中で、更改を余儀なくされ、法主、総監制による宗本一体の祖山中心の制度は三年にして廃止された。
宗本を分離後、増田日遠が管長に就任した。
その後、昭和三三年永倉内局提出の「祖廟輪番奉仕規程」及び「授戒規程」が第五宗会で制定され、祖山との新しい関係が制度化され、若干の改正は行われたが今日もなお続いている。祖廟輪番は六老輪番の精神を祖廟給仕の制度化によって顕現しようとしたものである。真の祖山中心は、如何なる法律にも左右されない祖廟を中心に、信仰を基として制度化されるべきで、祖山と祖廟を判然と区別する考え方に基づくものである。祖山はあくまで身延山久遠寺で法人格を有する存在である。
従って宗教法人久遠寺を対象とする制度化でなく、恋慕渇仰の霊域祖廟に直参、給仕奉仕する信仰の姿の制度化こそ祖山中心への不壊の直道としたものである。
授戒規程は、祖山の授戒道場で本宗の檀信徒に信心決定の自覚を堅持させるためのもので、法主が授戒師で、祖廟輪番本部でその事務を行うことが定められ「祖廟輪番奉仕規程」と精神を同じくするものである。
永倉総長は「法主即管長制」「宗本一体、法主、総監制」による祖山中心の制度の永続しない理由は護持の伝統、法縁関係、法人法の施行等種種あるがその根本的理由を祖山と祖廟の混然にあるとして、提案理由の説明の中で、三派合同の際における由比日光(本門宗)の奉告文を引用してこの区別を明らかにし「(略)尓後再び祖山の地を踏まず(略)然も守塔給仕の遺命を憶うことの切なる、寂を示してその御墓を営むや命じて祖廟の地に面して之を建てしむ。蓋し寂後なお給仕の衷情を表せんがためなり。嗚呼わが興尊、祖山を離れて再びその地を踏まずと雖も、その心は常に祖廟を離れざるなり(略)我儕ただ興尊の威霊を奉じて祖山に還り、その遺志を紹いで祖廟に奉仕する一事あるのみ。(略)」と祖山を中心とする宗是の基本的依拠を明示している。
(三谷会祥)