五山交番制
五山交番制
ござんこうばんせい
明治一一年(一八七八)四月七日に第二次本山会議が開かれ、身延を「総本山」と称することと「管長受持の寺跡」とすることが議決された。
従って本圀寺の釈日禎は管長職を退き、身延の住職であった吉川日鑑が管長に就任した。
しかし日鑑は明治八年の身延の大火後の復興を、同一四年に迎える日蓮聖人六〇〇遠忌までに何とかしなければならないという責任があった。
それに加えて管長職をもつことは、何れかを疎にするものである、
として「身延管長受持」を取消し「五山交番制」を提唱した。
日鑑のこの提唱に池上の日昇は反対したが、新居日薩は第一次本山会議において身延、久遠寺・池上、本門寺・中山、法華経寺・京都妙顕寺・同本圀寺のなかから管長を「公選」することは「五山盟約」に明記されているとして日鑑の提唱を支持した。
結局は身延前住職として日薩が管長を務め、同一六年一一月一四日には妙顕寺住職の福田日耀が管長に就任した。
これらを五山交番制という。