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法主即管長制の実現

ほっすそくかんちょうせいのじつげん #3757

法主即管長制の実現

ほっすそくかんちょうせいのじつげん

昭和七年(一九三二)三月二〇日第八三世法主として入山の望月日謙は、翌八年四月の門末常置委員会において、臨時山務調査会を設置したが、これは祖山の諸般について調査し、身延を名実共に大身延たらしめんとの目的によったものである。
越えて一〇年二月一日法主神保日慈管長宛に建白書を提出した。
その内容は六五〇遠忌に勅額を下賜されて以来、祖廟中心の声は宗内に高くなったが、その実績を見るときは未だ十分とはいえない、更に一歩を進めて真に一宗帰依の大霊山たらしめんとの趣旨であった。
これに応えて宗務当局は、同年三月の第三〇宗会において、祖廟中心制度調査会を発足し、一一名の委員によって調査、研究を重ね、その結果一一年一月に総大五山に意見を求めるところがあった。
たまたま同年八月神保管長退任し、翌九月に望月法主管長に就任した。
翌一二年の第三二宗会において、祖廟中心制の実現を要望する決議が行われた。
一二年一一月の身延山門末会議は当局の諮問に答えて「身延山法主ハ一宗ノ公選ト為シ、法主管長ノ制ヲ樹テ、以テ祖廟中心ノ宗是ヲ確立スベシ」、「更ニ亦コノ答申ガ、宗門ノ公的関ヲ経テ実施セラルルマデ、吾ガ門末ハ挙ゲテ該趣旨ノ貫徹ヲ期ス」との付帯決議がなされた。
こうして本案は一三年三月の第三三宗会において可決された。
ここで一体本案の内容は如何なるものであったかを当の「民新聞」の記によって見ると、 「ち同案の内容は、日蓮宗は従来四十四の本山に別れ、身延山久遠寺もその一つとして連合組織の下に統制されて来たものだが、今後はこれを改めて、身延山を宗門の中心として法主即管長の制を定め、教権一致、政令一途に出でしめんとするものであって、明治仏教界の巨匠新居日薩和上外、いくたの僧侶達が、これが実現に心血を注いで来た問題で、爾来同宗一同には、多大の期待と興味とを以て研究を続けられて来たものであっただけに、本案の認可と共に、日蓮宗は愈々身延山に依って、名実ともに統一せられた」。 (「民新聞」、昭和一三年四月二三日夕刊)
六月一七、一八日右制確立奉告法会が身延山で行われた。
更に八月三一日望月日謙は新制最初の法主管長に当選した。
同年一一月九、一〇日の第一三回門末会議において法主は、本制度確立と同時に「身延山山規」を改正すべきゆえんを告諭し、柴田顗秀総務は、山規改正は本山の方針を定め、宗門の意向に鑑みて改正すべきものであるが、先以て縁故深い門末議員諸師に諮るのが当然である、と述べた。
かくて「総本山久遠寺護持規則」が可決され、宗則第四〇号として発布された。
なお門末会議は明治二五年(一八九二)一〇月の会議を第一回とし、この第一三回門末会議をもって最後となった。
新山規は一四年末に刷されたが、本山規より「法首」の文字を用いることになった。
当分使用されたが、昭和二二年二月の祖山会において再び「法主」に復した。
ここに宗門は昭和一六年三月三派合同実現して、永い間の本末制度の解体の如き事態も見るに至り、新宗制生れてこの法主管長制も解消となった。
《『祖道復古』(昭和一三年六月一三日)、『報みのぶ』》

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