妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

諮問総会事件

しもんそうかいじけん #4803

諮問総会事件

しもんそうかいじけん

独立自治の団となった明治一八年(一八八五)一一月、第八代管長三村日修(大本山本圀寺)が就任し、物部日厳(本山妙法華寺)が監督(宗務総長)に就いた。 日修は翌年選ばれて四月一日総本山久遠寺住職に晋董した。
は既に会開設(明治二三年)の大詔が発せられており、一八年一二月には太政大臣以下を廃し、内閣を組織、伊藤博文が初代の総大臣になるなど、その開化進展は目覚しく二二年二月一一日には憲法が発布された。 新管長は就任以来急速に変化する時代の流れに宗門の前途を思い、世運への対応を考え、二一年八月二三日宗規改良議案一三箇条を作成し、各本山及び一般寺院に意見回答を求めた。
議案発布の諭告は「社会全体ノ進歩カラ論ズレバ、宗教ダケガ影響ナシトハイエヌカラ、教育布教ノ隆盛ヲ図リ、理財ヲ整頓シ一宗僧俗ノ向ウトコロヲ定メルタメニハ、教権一途、法令一途ノ方法ヲ採ルノガソノ旨趣デアル」とし、更に「地方寺院の往復の煩と、会議参加の経費とを考慮し、総大五山及び各区代表を招集して審議し、改良宗規を施行したい。 よって地方寺院も、急進因循両極端に流れず、為宗の方策があれば所懐を吐露されたい」とあって、時局認識と僻地寺院への配慮も含め、民主的にアンケートを求めたものである。 しかしこのことが図らずも争いの端緒となった。
議案の中で重要であり、また問題の種となったものは、

第一条 管長被選区域改正の件 「十七年会議条件第一条ヲ廃シ、管長ハ総本山住職受持トス」。
管長を総本山現住職の常任として法令一途(四四ヵ本山からでるバラバラの状態を一つの窓口にする)に帰せしめ、教権一致(分列形態にある布教と行政の両面を一本化する)の基礎を定めたいとしたもの。

第二条 管長職改称の件 「管長ノ名称ヲ改メテ大法主と称スべシ、但シ大法主ノ代理ハ四大本山住職ノ責任トス」。
管長は元来政府の決めた名称であるが太政官布達第一九号第五条の旨趣により本宗固有の名称に改めて差支えない筈である。 四四ヵ本山管長被選制を改め管長を総本山大法主の常任とする以上、大法主に改めることが本宗の古例に基づき万世不易にするものであるとしたもの。

第三条 総本山住職選定は「総本山ノ職位ハ権僧正以上ノ者ヲ公選シ、内務省ノ認可ヲ請ウべシ」。

第四条 四大本山住職選定は「権僧正以上ノ者ヲ公選シ、大法主ノ許可ヲ得べシ」。

第五条 諸本山住職ノ選定ハ「該山現住職及ビソノ末寺素紫跡以上ニツイテ権僧都以上ノ者三名ヲ選出シ、大法主ノ選任ヲ請ウべシ」とある。

第六条 宗務院位置の件 「宗務院身延山内へ移転シ、東京大檀林内ニ宗務出張所ヲ置ク」。
宗務院は一宗統轄の本所管長の常駐が好ましい。 管長が総本山受持と決まれば、大法主の東京常勤は困難であり代では責を全うできない。 総本山と宗務院が離れていては、一宗財の実を挙げ得ず、宗費も節減できない。 殊に身延山内に移転することは、総本山が一宗の共有であるとする実感を与え、権一致の法令施行に適合するとしたもの。

以上のほか七条から一三条までは役課の改正、出開帳、身延保存会、教育、布教の改良等に関する諸件である。
全議案中激しい争点となったのは「一六両条の争い」といわれる第一条と第六条で、議案が配布されると忽ち本山側から物言いがついた。 ち第一条は本山の伝統と誇りを奪い、権威を損うものでひいては存亡の危機を招くものであり、第六条の深山幽谷への宗務院移転は時流に逆行するものであるとし、かつまたかかる重要議案の一般寺院配布は、本山盟約を自ら破る背信行為であるとして猛烈な反対行動に出た。
明治一七年の本山永遠扶宗盟約(八ヵ条)の中には、同盟本山は管長を扶けて門末を督励し、一宗の大事には管長の出頭通知に応じ議に参ずること。 総本山の称号は尊崇の義で一宗統轄の意でないこと。 管長の行動が公正を欠く場合、各本山合議して改選を要望することなどがあり、管長に対する輔翼と独走への牽制を含めたものであった。 しかし改良議案当者は、盟約の中には管長の行為について一々協議を必要とする規約はないとしていた。
折柄二一年八月本海解、佐野前励らの有志は「日蓮宗革命党檄文」を草し「身延は宗祖棲神の霊場一宗の総本寺に非ずや(略)然るに猶四〇余ケ寺の本山ありて牛角の勢をなし、(略)唯自山あるを知って日蓮宗あるを知らず(略)吾党に 一臂の力を副えて合末論を主張せよ(略)」と訴え、旧来の本山会議なるものを全廃、寺院住職の選被両権、議会主義を主張し、日蓮宗革命綱領六ヵ条を添え「末寺合末要領條款」一六ヵ条を管長に建言して一般寺院に頒布し、合末の与論を喚起して同志の叫合に努めた。 これが反対側の怒りに油をそそぐ結果となり、京都大本山本圀寺は全末寺へ諭告を発し「廃本合末論を主張し同志を募る者があるが、人心騒然の基となすに過ぎず、抑も本寺末寺となるはその情誼各山開祖以来大いなる関係を有すること言うまでもなく、まして本山盟約は人々の脳裏にあり、(略)されば末派の僧侶世潮に動ぜられず本末一致宗風振起の志に安んじ(略)各々その心を同じゆうすれば金石も断つべく、衆それこの意を体せよ」と反発した。
かくして一六両条の争いは廃本合末を主張する急進論者(後の為宗会)と同盟本山との攻防にエスカレートした。 ために合末論取消の請願がでたが、内心合末論を認めていた宗務当局は、翌年二二年二月に至り釈明のため合末論と管長の志向とを混同し誤解の無いようにと諭達を一般寺院に発した。
これより先、当局は二一年一〇月二〇日五大本山と各本山から選出された本山代表及び一二地区から選ばれた末派寺院代表を招集して芝大教院に小林日董(大本山妙顕寺)を議長として諮総会を開催した。 賛否両派緊張のうちに議は進められたが大勢は当局案を支持し反対派の敗北に終った。 ち本山四四、末派寺院七六三計八〇七の答書総数のうち、各条殆ビ賛成を占め、殊に第一条は賛成六〇〇第六条は四四四の賛成過半数で原案可決となり、当局側の勝利となった。 原案は通過したものの反対運動は一層熾烈になり、急進派処の要求、内務省への反対陳情が行われるなどで、通過議案の認可申請も内乱状態の宗門情や、折柄の状騒然もあって許可が下りず、宗内への施行布達は遂に不可能であった。
翌二二年一一月監督物部日厳は辞職し、小泉日慈(本山蓮末寺)が後任監督に就任した。 翌年一月本海解は同志と共に「為宗会」を設立し、全国に支部を設け、副会長に前監督物部日厳を推し、六月八日盛大な発会式を挙げ、機関紙『法鼓』を発行し、清水龍山を編集責任者として、白金覚林寺中に白吟社を創設、改良議案の実現と宗門革新への言論戦を展開した。
これについで双方の調和策を構ずることを建前として「風倶楽部」が現れ「改良原案及ビ合末論ヲ取消シテ一宗ノ紛擾ヲ鎮定シ、時局相応ノ宗制ヲ組織スル」ことを標榜した。
かくして対立抗争の激化する中で六月七日管長日修は辞職するに至った。
原案支持の本山側から小林日董、反対の同盟本山側から鷄渓日舜(水戸久昌寺)の両名が通常事務取扱を委嘱され、一〇月管長選挙を行った。 その結果小泉日慈が最高点で当選したが、同盟本山側から選拳無効の強硬論が出て紛糾し本人自ら辞退した。 小林、鷄渓の両者は翌二四年三月「四月六日ヲ以テ管長選挙執行ノ旨」諸本山及び各寺院へ通達した。
これに対し為宗会の物部、本間、脇田堯惇ら一一名から「選拳執行に関する不法の達書取消し及び両名の宗務院退去」を要求する訴えが東京地裁に行われ、六日付の管長選挙は執行停止を命ぜられた。 両名は異議を申立てたが認められなかった。 更に両名は妨訴の抗弁をして判決の棄却を求めたところ「務取扱は職務上管長の資格であり(略)選拳執行は妥当なり」と両被告の抗弁が正当とされ、原告の申立てを棄却、形勢逆転した。 原告物部らは更に控訴したが結局棄却される羽目になった。
務取扱者の立場と資格に関する複雑な問題が裁判沙汰に及び迂余曲折があったが二四年一二月二五日公選の結果、小林日董が当選(有効三四通中二〇票)し四ヵ年に及ぶ長期戦に終止符を打ち第一〇代管長が誕生した。 新管長は翌二五年二月一六日付で為宗会関係の小泉、物部、脇田、市川錬秀、本間ら一四名の錚錚たる人々に対し、それぞれ役職罷免、憎階降退の処分を行い、諭告を発して自を求め将来をめた。 「明治二一年諮問会を開きし以来、紛議を起し朋党相轢り遂に法廷を煩すに至る。 今や稍々平定に帰し一宗堵に安んずることを得たり。 (略)和合は僧の本分なり。 荷も内相和せずんば何を以てか外を待たん。 既往は咎む可からず、将来必ず誡むべし。 (略)請う同門の諸師昔日党派の蹟を留めず、同舟相救うの念を起し、協力一致以て祖風を宣揚せんことを。 爰に之を諭告し以て後来の警誡と為さしむ」これによって一宗の動揺は概ね安定したが、前管長日修は二四年五月一七日宗門の前途を案じつつ遷化し、廃本合末論の急先峰、佐野前励は二三年六月既に九州本仏寺へ赴任し去りやがて逆境を乗り越え博多の日蓮聖人大銅像を建立することになるが、佐野をはじめ改良議案の物部及び同志達は敗訴の上、かつて同一陣営にあった日董の処分を受ける結果となり、一六両条のは野ざらし状態で反対同盟本山側の剛力に打倒された格好に終った。 一六両条諮問総会事件の概要である。
(牧野内寛清)

← 事典トップ