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法華経寺(千葉県市川市中山)

ほけきょうじ #3876

法華経寺(千葉県市川市中山)

ほけきょうじ

千葉県市川市中山に所在。
中山と号す。
一般に中山法華経寺と称している。
日蓮聖人檀越として有名な富木常忍が自邸を改めて法華寺とし、自ら出家して日常と号してここに住んだことに始まる。
法華寺の貫首となった日常は聖人から「当身の大事」として与えられた『観心本尊抄』を始めとする多くの聖教や書状を、後代に伝えることを最大の任務とした。
このため『常修院本尊聖教事』と題する蔵書目録を作成し「置文」を定めてその管を命じた。
永仁五年(一二九七)のことで、現在に伝わる「聖教殿」の名称は起源をここに求められるのである。

日常が永仁七年に没すると大田乗明の子息と伝える日高が第二世の貫首となった。
彼は日蓮聖人の側に仕え、いろいろと宗教上の指導を受けていたから、日常の後継者としてはまことにふさわしい人物であった。
そこで日高は中山にある大田乗明の館跡に本妙寺を創建し、ここに住みながら法華寺の貫首を兼ねた。
中世を通じてみられる本妙・法華両山一主制は、このに始まったのである。
本妙・法華寺が一寺となって法華経寺となったのは、ずっと後の戦代も末のことである(ここでは便宜上法華経寺の名称を用いる)。
日高は法華経寺の基礎を固めることを第一の使命と考え、当の下総に勇名を馳せていた千葉胤貞俗別当に迎えた。
やがて日高が亡くなると千葉胤貞の養子となった日祐が、若冠一七歳で第三世の貫首に就任した。
日祐は義父の千葉胤貞から広大な寺領を寄進され、その政治力と経済力を背景に、法華経寺の驚くべき発展をなしとげた。
末寺は千葉県を始め南関東一円に広がり、更に京都や九州にまで及んでいる。
また日祐自ら活発な働きを示し、法華経の転読や写経を行い、寺の堂塔を多く造営している。
更に勉学や布教のために京都へ四度にわたって上り、聖人の墓所たる身延山へも幾となく参詣するなど、目醒ましい活躍をした。
また康永三年(一三四四)には『本尊聖教録』を作成して法華寺分・本妙寺分と、彼自身の蒐集になるものすべてを合せた総合図書目録として後代に備えた。
日祐の代には全体的な団体制も整い、本末関係・寺内組織・僧侶の秩などが整備された。
信者たちは師匠と仰ぐ僧侶を中心に講を作り、定まった日に集まっては互いの信仰を磨き、先祖の菩提と現世の安穏を祈った。

法華経寺はこの後、一門の僧侶たちの活発な活動によって宗門の中で重要な地位を占めるようになった。
ここから巣立った僧侶としては、京都本法寺の開祖たる日親、頂妙寺の創立者の日祝らが有名である。
更に第一〇世貫首の日俒(にちごん)は、戦乱に荒廃した関東の地を意欲的に巡化布教に励んだ。
しかし徳川康の圧力によって中村(千葉県取市多古町中村)に移り、次の日典も萩(山口県萩市)に流された。
これを契として法華経寺の貫首は京都頂妙寺・本法寺・堺の妙国寺による、いわゆる三山輪番制となり幕末に至った。

一方、法華経寺は下総における聖人の霊場として早くから大勢の参詣者を集め、特に江戸時代には町人の信者でにぎわった。
法華経寺ではこのような信者現世利益の願望に応えるべく、鬼子母神を本尊とする木剣加持による祈祷が盛んに行われた。
法華経寺の特色の一つは、このような庶民信仰の霊場としての点にある。

近代に入ってからの法華経寺の歴史も、決して平穏なものではなかった。
明治初年の廃仏毀釈の痛手も大きく、第二次世界大戦後は日蓮宗から分離するなど、多くの難問をかかえていた。
しかしいまや日蓮宗復帰して、その重鎮として大きく飛躍すべき運にある。

このような歴史を誇る法華経寺は、池上本門寺と並んで関東の大本山として栄えてきた。
宗祖の聖人が初めて法を説かれた、いわゆる初転法輪の地であることから、宗門の霊跡寺院に指定され、信徒すべてが信仰を磨くための中心寺院となっている。
法華経寺の中心は法華堂(重要文化財)で、ここには聖人が定められた法華経の御本尊が安置され、信仰の中心をなしている。
祖師堂には聖人の御影と、開祖の日常を始めとする歴代の木像を安置し、境内の諸堂には鬼子母神・十羅刹女を始めとする法華経を守護する神を祀っている。
特に鬼子母神の信仰は古くから有名で、無病息災や子育てなど現世利益の効験を求める信者が多く「中山の鬼子母神」として世間に知られ、多くの信者を集めている。
また日蓮宗の僧侶に祈祷の秘法を授ける「日蓮宗加行所」も当寺の境内に開設され、毎年一一月一日から一〇〇日にわたって修行が行われる。
この修行は寒中に水行を続ける荒行として有名で、宗門の修法師になろうとする者は必ずここで修行しなくてはならない規定になっている。
法華経寺が宗門の祈祷根本道場とされるのはこのためである。

ところで法華経寺が内外に誇るべき柄は、聖人の著述や書状などが数多く今日に伝えられていることである。
聖教殿に収蔵されているこれらの御真蹟は、有名な『立正安国論』や『観心本尊抄』(ともに宝)を始め七七点にものぼり、そのほとんどがの重要文化財に指定されている。
聖人の思想と歴史をみる上で、法華経寺に伝わるこれらの自筆遺文は、特に重要な意味をもつものである。
また聖人自筆ノートの類から、一二八通にものぼる裏文書が発見され、鎌倉代の政治・経済・社会を究明する上で重要な役割を果している。
、紙は大変に貴重品であり、富木常忍は千葉介頼胤に仕えた文書官僚仕事で、反故紙について、日蓮聖人のために提供したと考えられています。これらを「日蓮遺文紙背文書」と呼び当時の社会を知る貴重な史料となっている。〈中尾堯『日蓮真蹟遺文と寺院文書』吉川弘文館〉

法華経寺で古くから行われている年中行としては、四月一五日から一八日にかけての千部会、一一月一五日から一八日にかけてのお会式が重要である。
毎月八のつく日には鬼子母神の縁日が行われ、正・五・九月の一八日には鬼子母神堂で子育て大祭が催されてにぎわう。
このほか新年祈祷会・施餓鬼・釈尊降誕会(花まつり)・宇賀徳正神祭・御霊宝虫払・八大竜王大祭・とりの市・おたきあげ・除夜祈祷会などが催される。
中山法華経寺誌編纂委員会編『中山法華経寺誌』同朋舎、中尾堯『中山法華経寺史料』、『日蓮聖人典』(雄山閣)「千葉」の項、『日蓮辞典』『史大辞典』一二巻「法華経寺」の項》
(中尾堯)

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