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京都二十一箇本山

きょうとにじゅういっかほんざん #479

京都二十一箇本山

きょうとにじゅういっかほんざん

天文法難以前洛中に建立され題目を唱える本山として開先師と共に活動した寺である。
ち妙顕寺、弘経寺、上行院、住本寺、本国寺、妙覚寺、妙満寺、本禅寺、本満寺、宝国寺、立本寺、妙蓮寺、本能寺、本法寺、頂妙寺、妙泉寺、学養寺本覚寺、妙伝寺、本隆寺、大妙寺、の二一ヵ寺をいう。
順不同前記の順に各山を記せば次の通りである。

「妙顕寺」=日像は永仁二年(一二九四)祖遺を体し京洛に布教伝道の第一声を挙げ、小野妙覚らの外護を得て元享元年(一三二一)具足山妙顕寺を建て法華寺院京都最初の寺となる。
妙本寺と称すも日芳代にやめる。
天文法難のほか軍略のため四度地を移る、この寺を「四海唱導」という。

「弘経寺」=朗源の弟子日誉が永和元年(一三七五)西陣に建立し顕本山と称す。
寺伝に和泉住吉郡寺町に寂光山弘経寺を建て住したとあるが不詳。
開基日誉法応永一七年(一四一〇)三月三日遷化と伝える。
六世日健の天文法難(一五三六)が起り廃絶したが、今は妙顕寺泉妙院に寺藉を存す。

「上行院」・「住本寺」=日興の弟子日尊が暦応二年(一三三九)上行院を建て、時を経てその弟子日大が住本寺を建て両寺一体という。
天文法難に両寺共堺へ避難し、天文一七年帰洛し両寺合併して「要法寺」となる、当寺安置の本尊を生御影一転の像と称すほか、要法寺板と称する銅活字板がある。

「本寺」=大光山という。
貞和元年(一三四五)日静鎌倉より本勝寺を移して本寺と称す(徳川中期以後を圀とする)。
一四世日助は天文法難に霊宝と共に堺へ避難、この寺六条門流の名あり。
代の変遷により昭和四六年(一九七一)洛東山科に移築し塔頭一八ヵ院は六条の地にとどまる。

妙覚寺」=具足山と称す。
朗源の弟子日実により永和四年(一三七八)小野妙覚の屋敷を寺地に創建す。
天文法難に際しての一七世日兆の戦死は悼ましく、二〇世日奥は大仏千僧供養招請に端をなし、不受不施義を唱え各所に論議沸騰した。
また日奥には下記の著書がある。
宗義制法論』『守護正義論』『禁断謗施論』。

「妙満寺」=日什の開基、顕本法華宗総本山。
弘和元年(一三八一)京都に来り妙法弘通す。
康応元年(一三八九)妙塔山と号す、天文法難は和泉の正興寺に避難し七年後戻る。
その後寺町二条に在り元和年兵火に焼かれ明治一四年聖人六〇〇遠忌に再興するも第二次世界大戦後自治体の請により昭和四三年(一九六八)洛北岩倉枝に移転す。

「本禅寺」=了光山と称し、法華宗陣門流別院(本山)である。
応永一三年四月本成寺日陣入洛し四条油小路に創建。
天文法難に焼失したが文九年五月本成寺日覚来たり西陣に一宇を建て五世となる。
秀吉の命により現在地に移る。
宝永五年(一七〇八)及び明八年(一七八八)両にまた類焼したが、のちに復興した。

「本満寺」=広布山と称す。
応永一七年近衛道嗣の子日秀の開基で、初め新町今出川近衛家に創建す。
一一世寂後約五〇年の位あり、その間天文法難のため堂宇は焼失、日重代天文八年(一五三九)現在地に移る、一二世日重、一三世日乾、一四世日遠なり、これを重・乾・遠の三師と呼ぶ。
『本満寺御書』は日重の纂集である。

「宝寺」=本寺五世日伝のため付弟日が開基したという。
寺の北に位置し、天文法難後は本国寺塔頭持珠院に合併した、持珠院は明治一五年(一八八二)愛媛県西宇和郡伊方町三机村に移転したが、宝寺に関する寺伝はなにもない。

「立本寺」=具足山と称す。
日霽の法弟日実の開基。
四条櫛笥を発祥の地となし四条門流に属す。
五世までの歴世と具足山の山号は妙顕寺、妙覚寺、立本寺の三寺同一である。
天文法難は堺に避難し、文一一年京都に戻る。
歴世に藏日生、霊鷲日審、本覚日英、遠沾日亨らがある。

「妙蓮寺」=卯木山と称し、本門法華宗大本山である。
永仁二年(一二九四)日像により五条西洞院に創建するも後毀される。
日慶の代に至り柳屋仲興の帰依あり、その宅をもって大宮四条に再建す。
九世日忠は境内に学室道輪寺を設立し本化教学の道学の道場を開く、文五年の法難に悉く焼失。
正一五年(一五八七)現在地に再興は秀吉の命によるなり。

「本能寺」=法華宗本門大本山なり。
応永二二年日隆により五条門に創建するも月明の手に破壊される。
永亨元年(一四二九)六角宗句の援助あり、内野に再建して本応寺と称す。
天文法難は堺に避難して、のち六角油小路に建て本能寺と改める。
秀吉の命により今の地に移転した。

本法寺」=叡昌山という。
日親により永享八年四条綾小路に創建。
日親は将軍足利義教に『立正治国論』を示し諫言の結果投獄、鍋冠の刑と共に寺も破却される。
獄中に本阿弥清信(光悦の曽祖父)を知り一族との交流おこる。
その後、寺を再興したが文五年法難に焼失、正一五年現在の地に移る。
一四世日通代より中山三山輪番制始まる本法、頂妙、妙の三寺なり。

「頂妙寺」=聞法山という。
日祝が明応四年(一四九五)細川勝益帰依を得て四条富小路に創建。
足利義植は永正六年に足利義晴は大永三年にそれぞれ寺地を移す。
天文法難に灰燼し、堺に避難し天文一一年京に戻り再興、天正七年日珖は信長の謀略のため安土宗論に敗ける。
なお文禄三年に中山輪番制をつくる頂妙、本法、妙なり。

「妙泉寺」=本湧山と称す。
顕本法華宗に属し、妙満寺五世日舜が畠山義就の帰依を得て、永亨三年綾小路に創建。
天文法難に焼失再興。
宝永五年三月大火後寂光寺内に移り、第二次世界大戦後同寺に合併し、昭和五一年九月八日に焼失した。

学養寺」=この寺は二説あり、一は『本化別頭仏祖統紀』に「身延山九世日学の門人に大乗坊日讃あり学養寺を創建し師匠日学を開山に仰ぐ」とある、一は『山城法華霊場記』に「身延門流、開基は日養妙伝寺内学養に摂す」とある。
日養は応永二四年六月一六日入寂した。

本覚寺」=四条門流に属し、妙覚寺九世日延の創建。
弟子妙覚寺一三世日住もまた師跡本覚寺に進み晩年妙覚寺へ合併したという説あり。

「妙伝寺」=法鏡山と称す、文明九年(一四七七)身延一二世日意により一条尻切屋町に創建。
天文法難には堺に避難、その後文一五年帰洛、西洞院四条に再興、更に京極二条に移り宝永五年大火類焼、その後今の地に移る。
一四世日勇は山科檀林の鼻祖である。

「本隆寺」=慧光山と称し、法華宗真門流総本山である。
長享二年(一四八八)日真が六角西洞院に草庵を結び、翌延徳元年四条大宮に一宇を創建。
天文法難に焼失、文一一年に再興したが七世日修の代正一二年(一五八四)秀吉の命によって現在地へ移る。
京の歴史書『雍州府志』の著者黒川道祐のあり。

「大妙寺」=日行学徳兼備初め日朗に仕へその寂後京に来て日像に仕える。
信徒某日行のため下鴨に一宇を創る。
日像との別離を好まず躊躇するも暦応三年(一三四〇)開堂して大妙寺という。
天文法難に焼失、のちに秀吉は妙顕寺を割いて此處に移せりという。
《『日蓮辞典』「二十一箇本寺(にじゅういちかほんじ)」の項、『本化別頭仏祖統紀』、『日蓮教団全史』上、『身延山史』、山堯雄「京都に於ける日蓮教団寺院」『大崎学報』一一二号、『山城法華霊場記、『日蓮宗寺院大鑑』
(西村泰賢)

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