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禁断謗施論

きんだんほうせろん #4328

禁断謗施論

きんだんほうせろん

日奥著。
日蓮宗不受不施派の開祖日奥は慶長一七年(一六一二)、一三年間にわたる対馬流罪から赦免されて京都に帰り、元和二年(一六一六)に妙顕寺日紹が京都諸山を代表して改悔するにおよんで諸山と和融し、再び妙覚寺に入った。
ところが、日奥がこのころ「おまんの方」の兄にあたる紀州の三浦為春に与えた「法華宗諸門流禁断謗施条目」が、当時隠居していた身延日乾の目にとまり、日乾は『破奥記』を著してこれに反駁した。
これに対して日奥の『宗義制法論』があり、更にこれに日乾の反論があった後、日奥は『禁断謗施論』を著して日乾を非難したのである。
の著名な学僧である僧那院日豊はこの『禁断謗施論』に対し『笑禁断謗施論』をもって報いているが、それによれば『禁断謗施論』は寛永元年(一六二四)に著されたものだという。
本書は法華経の正法を誹謗する不信の徒の布施を受けず、また彼らには布施を施さない義を明らかにしている。
一一段からなり、まず日乾の文を引き、次いでそれに破斥を加えるという形をとっている。
日乾の仏法の本懐は一切衆生を成仏得道せしむるにあり、その見地からすれば一をも作さしむることは莫大の功徳となる。
而強毒之行法はこの方より勧めても謗施を受けてその功徳をもって謗法者の罪を消滅せしむべきである。
菩薩地獄餓鬼に堕ちても縁を結ばしむるのであるから謗施は下種の縁となる。
謗施の例として日蓮聖人船守弥三郎阿仏房夫妻らの供養を受けられた。
などの主張に対して、日奥は種々破斥を加え、謗施不受を論じ、不信の徒の供養を受けるは謗法であるというのである。
日奥は船守・阿仏の如きは権者にして生得の謗者でなく、またその施は受法以前の世間の仁施であって供養とみるべきものではない。
供養とは法理を信ずる心より起るので内心の悟りを相に現したものである。
故に供養と世の仁施とは区別しこれを混同すべきでない。
また謗法とは単に誹謗のみならず不信をも意味するのである。
従って不信の徒の供養を受けるはこれまた謗法となる。
と主張している。
巻末には追記があり、身延山は日乾によって濁山となれるの義と、その師日重の非義とを記し、また元和二年の日紹との和睦の顛末をも録している。
《『万代亀鏡録』第四、『原文対訳万代亀鏡録』巻上》

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