足利義教
足利義教
あしかがよしのり
(一三九四-一四四一)
室町幕府六代将軍。三代義満の子。
初め義円と称し天台座主となったが、将軍義持の死後、彼の嗣子義量がすでに早世していたため還俗し、正長二年(一四二九)三月一五日、将軍となり義教と改名。
義教は将軍として自らの政治基盤の整備、確立に努め、永享の乱では関東管領足利持氏を討つなど、幕権の伸長をめざして精励した人物ではあったが、そのことが半面では、守護や地頭御家人の家督相続への介入・干渉、あるいは有力守護大名の討伐となって現れ、独裁専制の政治を行うことともなった。
そのため諸将の中には義教に不満を持つものも少なくなく、嘉吉元年(一四四一)播磨の守護赤松満祐による嘉吉の乱によって殺害された。
義教のこうした独裁専制の政治は、当時「万人恐怖の政治」と恐れられ、それは宗教界に対しても及んでいる。
中央の政界や宗教界に隠然たる影響力を持っていた比叡山延暦寺が、叡山に敵対しているとして将軍義教の側近グループを批判攻撃し、彼らの処分を幕府に迫ったときには、断固延暦寺攻撃を命じた。
そのために延暦寺の多くの僧侶たちはこれに抵抗し、永享七年、自らの手で根本中堂に火を放ち自害した。
義教のこの山門攻撃は、のちの織田信長の焼討ちと共に比叡山の歴史上希有の事件であり、人々は仏を恐れぬ義教の行為を非難した。これに対し、幕府は表だった批判をいっさい許さず、京の路上でたまたまこのことを噂していた一人の商人はたちまち捕えられ首をはねられたという。
また「なべかむりの法難」で知られる久遠成院日親は、室町幕府に対して再度の諫暁を試みているが、その相手はこの将軍義教であった。
義教は日親の訴えを退け、逆に日親を捕えて投獄し、激しい刑罰を加えたが、嘉吉元年の赤松満祐による将軍義教の謀殺がきっかけとなって許された。
《『国史大辞典』一巻「足利義教」の項》