昭和期の教団
昭和期の教団
しょうわきのきょうだん
(昭和二-一九年)
(一)日蓮聖人六五〇遠忌迄の状況。
昭和の初期五-六年間は無政府主義の考えに反発した日本国民性の考えが喚び起され始め、また教団人の間にも宗門精神を反省する傾向が、遠忌を近く迎えると共に興り始め、管長酒井日慎は教誌『日蓮主義』を創刊し、本多日生(一八六七-一九三一)は思想国難対策として知法思国会を興し、立正大学生の間にも大和魂会が私称せられた。
昭和四年宗務当局・新甫寛実(一八七七-一九四五)は映画応用の布教の新方面を開き、官庁の便をえて鉄道共敬会、逓信管内に精神講話として布教が行われ、都守泰一(一八九五-一九七三)は京都博覧会で道路布教を行った。
教育では立正大学に宗学中心の学是を立つべしとの与論が盛り上がり、宗学科生に補助給与として興隆を計った。
その翌五年には遠忌準備の動きが目覚しく、宗務当局は準備布教講習会を開き、特派布教師をして全国に大挙伝道を開始。
平間寿本(一八六八-一九四二)は法要式の講習会を開いて声明(しようみよう)を興し法要に備えた。
昭和六年一〇月を中心に日蓮聖人六五〇遠忌の一行事が、天皇から拝戴した「立正」の勅額を東京池上本門寺に拝受、次いで身延山に奉納すると共になされ、また諸寺に法要が修せられ、記念事業に釈貫隆(一八七〇-一九三六)の『遺文普及版』・北尾日大(一八七五-一九四六)、望月歓厚(一八八一-一九六七)らの『遺文講義』・稲田海素(一八六九-一九五六)編『日蓮宗年表』・柴田一能(一八七三-一九五一)らの『聖人全影』の出版、山田一英(一八七四-一九六六)らの立正診療所の創設等。
遠忌の報恩活動は翌年に及び勅額下賜の奉答と共に宗門当局は酒井管長率先して全国に大挙布教、京都本山合同で第一周年奉祝法要を修して身延参拝。
別に房州(千葉県)清澄寺で初めて報恩会式が挙げられた。
遠忌頃の国状は満州事変・失業者増大・反宗教運動・上海事変で、対外武力進出、天皇制強化・思想取締等国防対策に多事。
(二)遠忌以後の状況。
昭和八年国は国際連盟を脱退、満州中国へ武力進出、国民の間に非常時の認識顕著、識者から国体明徴の論議起る。
次いで観音教・生長の家が起り、大本教・ひとのみちが検挙され新興宗教も興亡を見た。
教団には有能な人材がでて功績をあげる。
中山法華経寺神保日慈(一八六八-一九三七)は昭和七年二月宮城前に国祷会を修し、翌八年管長として陸軍部の頼みで日比谷公会堂に満州事変三週忌追悼会を修し、翌一〇年布教献金制を案出、これにより布教連盟が成立。
朝鮮・満州に設けられた開教司監の活動、また昭和九年皇太子誕生を機に盛んになった幼少年に対する教化活動などを発展させた。
更に教団教育上宗義研究の態度が学解に偏向するを、信行へ指向させようとの与論が起り、立正大学の香風学寮、身延の信行道場の教育施設はこの要望に応えたもの。
昭和一一年馬田行啓(一八八五-一九四五)が教学部長として社会部長を兼任し、布教師会・修法師会の両規約が確定、修法講習会を開き、中央護法婦人会を結成し慰問袋を国内信者に募り、これを満州・南支の派遣軍、また秋田尾去沢鉱山罹災者を慰めるなど社会活動を上昇させた。
(三)戦時下の教団。
国は年と共に大陸制圧の方向に進むに従い国家主義を強化し天皇中心を強調、この気風また教団にも影響され、神保前管長の準備努力が実を挙げ、身延望月日謙(一八六五-一九四三)管長に至って、祖廟中心の制度化が確立。
昭和一二年軍部は中国へ全面進出の戦時態勢となり、教団当局は立正報国義会を設け、社会課を部に昇格し、立正大学に特に満鮮講座を設け、檀信徒有志は水魚会を開いてこれに応じ、翌一三年当局は宗機参議会制により身延久遠寺住職は同時に一宗管長たるいわゆる宗本一体制とし、大法燈会費制によって祖廟中心制の基を固めた。
軍部が中国主要都市を占拠するに至り国内に国家中心天皇制の行政を進め、映画で「国柱日蓮聖人」「国を守る日蓮」などが上演されたが、また聖人遺文並びに御本尊の座配について不敬の廉あり。
として削除を申し渡された。
滅私奉公の気風国民の間に行きわたり、教団一部信仰の趣く所ついに信仰中心に天照本仏・天皇本尊説を誘起させた。
翌一四年戦局拡大し蒙古・中支・南支に及び、国民徴用令発布、民心の統制を強むべく興亜奉公日が定められた。
また外地の宣撫工作、国民精神作興などの緊要な精神活動を必要とし、ここに宗教家の協助に待つべく国は宗教家懇談会・宗教団体法制定などの宗教対策が案出。
これらの対策にわが教団は有力な保護利便をえて、敏活な宣撫慰問布教活動を展開、馬田行啓が昭和一三-四年数次管長代理として中南支・北支・蒙・彊・満・鮮へ慰問、布教視察したのはその例。
昭和一五年軍部は更に仏領印度支那方向へ和平進駐、国内は高度国家建設を進め、政党を解消して大政翼賛会とし、経済統制・労組を解消して産業報国会とし、金属、石材・木材等資材の供出となり、宗教に対する統制が具体化し、宗教団体の合同委員会が設けられ、わが教団では本山会議で宇都宮日綱(一八八二-一九六二)らの議により末寺が本寺に従属する組織解消。
昭和一六年東条内閣、日ソ中立条約成り、国民学校令実施、東京・京都に宗教教師指導者講習会が練習所にひらかれ、三〇-四五歳の僧侶を募集、わが関東教団で七名応募。
また昭和一七年頃より玉沢妙法華寺に錬成道場を設置し、日蓮宗国民錬成指導員を養成し、軍需工場その他に派遣して戦意昂揚と銃後強化に協力した。
宗教用具の金属回収。
教団合同は日蓮・顕本・本門の三宗は日蓮宗。
法華・本門法華・本妙法華の三宗は法華宗との二宗。
日蓮宗不受不施派・同不受不施講門派は合せて本化正宗。
更に日蓮正宗とで四宗に合同。
この合同の結果日蓮宗は宗制を変更し、従来の法主即管長制を廃止、宗機顧問制によって管長選任とし。
檀林を宗立としてその強化を計り、教学部に合同法要式起草会、信行行規作制協議会を設け、また昭和一五年から行われていた布教師・修法師共同の全国巡回布教は本年も続行、特に湯川日淳(一八七七-一九六八)の発案指導により、身延山流の緩調打鼓法に統一訓練されて定着した。
やがてこの信行形式により昭和一九年一一月身延祖師堂大国祷会の際、教団全国代表僧俗によって一糸乱れぬ秩序整然たる統一された理想的な唱題行を完修しうるに至った。
以上昭和の教団は国の戦局に協翼しながら、聖人の六五〇遠忌・勅額奉答・宗是の昂揚・弘通宣布に尽粹した期間である。
《浜島典彦『お題目と歩く―近世・近現代法華信仰者群像』》
(影山堯雄)