戦時下の教団
戦時下の教団
せんじかのきょうだん
ここで戦時下というのは、昭和六年(一九三一)に勃発した満州事変から、日本軍閥による対中国侵略戦争の拡大、第二次世界大戦への突入、そして敗戦という「一五年戦争」下をいう。
この戦時下で、さまざまな意味で特筆されなければならないのは、日蓮聖人六五〇遠忌に正当した昭和六年に実現した「勅額拝戴」である。
翌昭和七年三月に開かれた定期第二六宗会での管長教旨は、この「勅額拝戴」をうけて「此の秋に膺り偶々満蒙の大事変起り、支那に於ける抗日の状勢日に悪化し、東亜の天地忽ち暗漕、遂に膺懲の義軍出動するに至る。(略)別して満州国の建設を見たる今日宗門率先して教線を拡大し」うんぬんと述べ、その具体策について柴田宗務総監の施政方針は「開教地布教補助費に於て前例のない多額の要求をしましたのは、去る九日を以って建国式を挙げたる大満州新国家に対する本宗の積極的、本格的の布教方策を樹立する準備として、司監自ら長春若しくは奉天に常在して調査を遂げ、来期宗会には具体策として提出する順序となる筈で、これ王道主義の新国家発展に伴う立正主義の発揮に万全を期せんとする所以であります」とその抱負を述べている。
また同年四月には日比谷公会堂で「聖旨奉答」の国祷会が開かれるにいたっている。これには犬養総理、鈴木内務、鳩山文部の各大臣が来賓として出席している。
かくて勅額拝戴聖旨奉答大伝道なるものが号令され、日蓮宗団は挙げて中国植民地化政策に奉仕させられて行った。
日蓮聖人六五〇遠忌への報恩行は、このような方向に進み、昭和一二年七月の蘆溝橋事件をきっかけとした日中戦争激化のもとで近衛内閣が「国民精神総動員」実施要綱を決定すると、望月管長は、これに答えて「国民精神総動員立正報国運動」の展開を訴えている。
これが昭和一五年の宗教団体法の成立に伴う「新体制即応」の宗団統制の国策として打出された宗派合同政策に沿い、翌年日蓮宗、顕本法華宗、本門宗の三派合同が実現すると、第二次世界大戦への突入を目前にして、文部省の指導のもとで宗務院内に「戦時体制事務局」が設置され、その実動団体として「立正報国会」が結成されるという歴史に連続する。
この立正報国会の目的とは「宗祖の国体光顕立正報国の精神を体し、挙宗一致緇素協力して宗門の機能を最高度に発揮し、以て国家の非常時局体制に即応し皇謨翼賛聖業完遂に邁進する」というものであった。
また第二次世界大戦勃発の翌昭和一七年一月に開かれた三派合同後の初めの日蓮宗第一次宗会で、馬田宗務総監が第二次世界大戦の目的について「東亜民族を解放し、大東亜共栄圏を確立し、進んで世界維新を促進し以て肇国の大理想たる八紘為宇を実現する一大聖戦であります」と挨拶し、アジア侵略戦争賛美の体質を明らかにしている。
丁度この頃、即ち昭和一六年、合同後の日蓮宗は同年五月、宗綱審議会を開き、日蓮遺文削除の自主的摘出の検討を開始し、いわゆる遺文削除問題が表面化している。
ところで、こうしたさまざまな戦時下宗団の動向の背景には、当時の国家権力が強要した各宗教団の教義、教学に対する国家主義的歪曲である「教学刷新」運動が存在していた。
『立正安国論』が「国主法従」を説かれた書であるが如き曲解などは、その典型的事例である。
ところで三派合同に伴って昭和一六年八月頃、日蓮宗は「寺院規則」(準則)を各寺院に送り、翌年三月末には加盟寺院の殆んどが管長の承認をえて所定の手続きを済ませたが、中山法華経寺は日蓮宗々制第八条の「本宗の本尊は宗祖奠定の大曼荼羅にして之を本門の本尊と称す」という条文を寺院規則に準用するという宗務当局の方針を拒み、同寺院規則第四条に「本寺院は観心本尊抄所顕の曼荼羅を以て本尊とす」と規定し、管長の承認を求めた。
この問題は、いわゆる「本尊」論がからんで複雑化し、昭和一七年九月に宗務院で開かれた審査会で、法華経寺宇都宮貫主の態度を非なりとして、僧階二級降退の審決がされ、当時の宗務総監であった馬田即貞の辞任にまで発達した。
これがのちに中山法華経寺独立という事態にまで及んだわけである。
《中濃教篤『近代日本の宗教と政治』、中濃教篤編『戦時下の仏教』、中濃教篤編『近代日蓮教団の思想家』、『特高月報』内務省警保局保安課》