日朝(加賀阿闍梨・行学院)
日朝(加賀阿闍梨・行学院)
にっちょう
(一四二二-一五〇〇)
字を鏡澄、加賀阿闍梨といい、初め宝聚院と号し、のちに行学院と改めた。
身延山第一一世貫首。
身延山久遠寺発展の基礎を築き、また室町時代の代表的な教学者である。
日朝は伊豆の宇佐美に生を享けたが、父を幼時期になくし、伯父夫婦に養育をうけたと伝えられる。
永享元年(一四二九)四月八日、八歳のとき身延門流の学僧である一乗坊日出に師事して剃髪得度。
三島本党寺にあって兄弟子日軌の薫育を受けたという。
長じて武蔵国仙波郷星野山無量寿寺に遊学し天台学を修めた。
無量寿寺は仙波檀林とも呼ばれ、仏地院と仏蔵院の二所があり、当時関東天台の中心として隆盛を極めていたのである。
日蓮宗からも多くの遊学者があり、日朝が遊学中に書写した書物の奥書には「京都妙蓮寺和泉公」「京都高辻大宮妙覚寺正行院之住人大輔公」等の名が見え、この当時、京都から関東へ下向していたことがうかがえるのである。
日朝はこの仙波檀林の仏蔵坊において論議を中心とする当時の天台教学を摂取した。
その遊学期間は永享一二年(一四四〇)から文安二年(一四四五)にかけてであったが、仙波檀林に常住したのではなく、嘉吉二年(一四四二)には佐渡の霊跡をめぐり、更に京都へも遊学したことがうかがえる。
その間、伝承によると、師一乗坊日出より三島の本覚寺を委ねられ、次いで文安三年には鎌倉本覚寺をうけて両寺を兼務するようになったという。
しかし両寺は日朝の代務者によって維持され、日朝は処々へ遊学の旅に出向いたようである。
即ち下野(栃木県)足利学校において儒学を始め、仏教以外の学問を学び、次いで京都・奈良・比叡山へと向って諸宗の教義を研鑽している。
この結果は文明三年(一四七一)の『一代五時記』一八巻、あるいは『四宗要文』二巻として著されている。
そして京都では本覚寺日住の門に在って宗学を修めたのである。
しかし、これらの遊学時期などは明らかでない。
室住一妙師の『行単院日朝上人』によって事跡をたどると、享徳元年(一四五二)相州(神奈川県)長光山法泉寺の開創、同二年慈父妙善の取越三十三回忌菩提のため法華経の講義、同年一〇月には門下のために『西谷名目』を講じている。
享徳三年「石和浩難」が起り、長禄三年(一四五九)師日出が鎌倉大宝寺において入寂。
寛正二年(一四六一)田島弘通所にて法談、六月から七月には比企谷妙本寺にて法華経を講じ、寛正三年四月には身延山一〇世観行院日延が入寂。
『本化別頭仏祖統紀』『身延山史』は日延の入寂を寛正二年と記しているが『日蓮教団全史』の指摘どおり、寛正三年である。
日朝はこの跡をうけて同年、身延山第一一世の法灯を継承した。
ときに四一歳である。
日朝は明応八年(一四九九)門下の円教院日意に久遠寺を譲るまで、三八年にわたってその貫首職にあった。
当時の諸門流の本寺は末寺の中心をなし、その貫首は絶対的な権限を有していた。
それは寺門経営という面と、教学及び教育の面にわたるもので、貫首は物心両面にわたる責務があったといえる。
日朝の身延期もこの両面を兼ね備えている。
まず寺門経営の面では、大坊等の諸堂の移転があげられる。即ち狭隘な西谷の地より現在の地へ移転したことである。そして諸堂並に方丈等を整え、二重塔、刹女堂、舞殿をも建立し、伽藍の整備に尽力している。
そして身延山の年中行事・月行事の制度を定め、法則を制定して運営の面について明文化している。
また教学面においては、まず日蓮聖人の損文を蒐集し『録内御書』を書写すると共に『録外御書』の蒐集にも努めている。
これらの遺文の註釈書として『御書見聞』四四巻があり、日蓮聖人の伝記に『元祖化導記』二巻がある。
また法華経関係の註釈書としては『補施集』一一二巻、『法華講演抄』三六巻、『法華草案抄』一二巻等がある。
宗義関係のものとしては『弘経用心記』五巻、『当家朝口伝』二巻等があり、他にも天台宗関係を始めとする諸宗に関係するもの、あるいは口伝として本尊の諸相伝などがある。
次いで教育の面であるが、日朝は入山直後より門下の教育に努め、ことに仙波檀林で行われていた論議を依用したことである。
その論議として毎月三日に行われる「三日講問答」、毎年開宗会に催される「立正会問答」、諸宗にわたる論議として「例講問答」がある。
それらの問答講会の論議の趣旨およびその中に日朝みずから評決した記録が身延文庫に現存しているが『身延山史』によると『三日講問答』一二三巻、『立正会問答』四九巻、『例講問答』二七巻である。
その論議は問者と講師とを日朝の門下が務め、日朝みずから評決したと思われる。
その日朝の門弟の数は定かではないが、論議書や著書の奥書・曼荼羅の授与者等の名を数えあげると七〇名を超える。しかし名をとどめていない者もあったであろうことから、この数よりも実際ははるかに多かったものと推測される。
以上概観したとおり、日朝は寺門経営、教学及び教育の面に尽力し、室町時代の一致派の代表的な学匠であった。
この時代京都を中心に活躍した勝劣派の慶林坊日隆と共に東西の双壁と称されている日朝は、このような門下教育と著作活動とに大きな足跡を残したが、その著作場所として行学院(現在の覚林坊の地。片阿沢(かたくまざわ))の学室建設がある。
その創立年代は明らかではないが、室往一妙師の前掲書には文明一〇年(一四七八)の八-九月とされている。
しかし『弘経要文』二巻の奥書には、文明九年六月にはこの学室で著述されたことが記されていることから、この年には完成していたと見なければならない。
このように対内的な日朝の活躍は、身延門流の繁栄を意味したが、対外的に大きな問題が残されていた。
それは中山門流との不和であった。
中山と身延とは聖人滅後、中山第三世日祐と身延第三世日進との間はきわめて親密なものがあった。
しかるに中山日尊と身延日叡の時代に法服着不着の論争を起因として不和となり、身延九世日学のとき両山の和議が成立したが、本格的な意味での和解ではなかった。
このような状況に精通していた真如院日住は関東に三度下向し、和睦のために尽力した。
日住は日朝の宗学の師であることから、和融の依頼があったものと推測される。そして遂に文明六年和議が成立した。中山第八世日院、身延の日朝の代であった。
この和議成立後、日住は身延の祖師像の前で法談を致し、日朝は中山本妙寺において同様に一座の法談をしたのである。この和議を最も悦んだのは、年来の宿願とした日住であった。このように日朝は対外的な和融をも推進したのである。
晩年には『補施集』一一二巻作成のために全精力を傾注し、一時は眼病を患らって筆を置くこともあったが、やがて回復し明応八年には法弟円教日意に第一二世の法灯を譲り、明応九年六月二五日、七九歳の生涯を閉じたのである。
法臈七二であった。
《『日蓮辞典』『日本仏教人名辞典』『国史大辞典』一一巻「日朝」の項》
(北川前肇)