弘経用心記
弘経用心記
ぐきょうゆうじんき
身延山久遠寺第一一世行学院日朝(一四二二-一五〇〇)の著書で、上下二巻五段から成る。
慶安元年(一六四八)に出版されている。
本書は教・機・時・国・教法流布の前後(序)の五義について詳述したもので、全体は問答形式となっている。
題号は、おそらく日蓮聖人の『顕謗法鈔』の第四段に「行者の弘経の用心を明す」(定二四七頁)とあって、弘経の用心に五義が説かれていることに由来しているものと思われる。
まず第一の「教」については「教を知ると言はば、正法を弘めんと欲う人は、先ず須く教相を知るべきなり」とあって、教相を明らかにすることの必要性を強調している。
そして中国における代表的な十家の教相、および日本における十宗の教義の概要が説かれる。
このように諸宗の教義、教相を論じ、次いで如来一代の説教を弁えるときは、もっぱら天台大師の所立によるべきであると述べ、五時八教が説かれて来るのである。
そこに如来の実乗たる法華経が導出される。
そして当家の義については、次のように説かれる。
まず実乗には重重があって、それは迹門・本門・要法とであり、末法における至極の実乗とは「真浄大法」たる要法であるという。
そして、この要法を弘める人は「本化之降誕豈に其の人に非ずや」と述べている。
その末法の弘経者は廃権を用いる時であって、それは「末法は折伏を行ずるの時なるが故」であると結論づけている。
次に第二段では「機を知ると言はば、正法を弘めんと欲わん人は、先ず須く機性の相を知るべきなり」とある。
そして末法今時は本未有善の機、謗法の機のみがあって、不軽菩薩の如き毒鼓の化導をなすべきであると見るのである。
第三段は「時を知ると言うは、正法を弘めんと欲わん人は必ず先ず時を知るべきなり」とあって正法・像法・末法の三時、大集経の五箇五百歳等が説かれる。
而して正法、像法には能弘の師と所弘の法とがあり、末法には神力品に付嘱を受けた上行等の菩薩が能弘の師で、所弘の法とは「以要言之」の要法なりとする。
次に第四段は「国を知ると言はば、凡そ仏教は必ず国に依って相応の法有るべき也」とあって、インド、中国、日本の地理的、風土的な様子が示され、正法・像法・末法の三時が三国に配釈される。
この日本国は一向に法華経の弘まるべき国であって、正像二千年には仏法は東漸したが、末法には日本に導師が出現し、日が西へ向かうが如く西漸すべき時であると結ばれる。
次いで第五段は「教法流布の前後を知ると言はば、仏教の未だ渡らざる国有り、須く其の相応を知るべし。
已に仏法流布の国に於ては必ず先ず已に流布の法を知て当に其の相応の法を興すべき也」とあって、三国仏法流通の次第について詳細が示される。
そして最後に「問う末法の中に於いて誰人が流布の次第を知て其の法を弘むるや。
答う、本化の外に全くこれ有るべからざるなり」と結ばれる。
以上の如く、五義が説かれているが、それを要約すれば、末法における要法は神力品で付嘱された妙法五字であって、それを弘通する導師は本化の再誕たる宗祖であり、しかも末法に要法を弘通する態度は摂受でなく、もっぱら折伏によるものということである。