下山御消息(二四七)
下山御消息(二四七)
しもやまごしょうそく
一篇。
日蓮聖人著。
建治三年(一二七七)六月に身延山から「僧日永」に代って筆をとり、下山兵庫五郎に宛て出された消息文である。
真蹟は分断が激しく小湊誕生寺以外三〇余カ所に四〇紙の断片が散在しており、現今も新発見されている。また日法、日澄らの写本が現存している。
真蹟が断片的で数も多く、分散しているために全文を補成するに当り、後人が加筆したと思える部分もあって、全文を真蹟現存の御書と同一にみることには、問題が残ることになる。
また真蹟には直弟子の筆によるものと思えるふり仮名がついているところもある。
(全文ではない)。
『啓蒙』にはこの書のことを「日昭門流の抄に云く、此書には異本これ有り、聖人の御詞にあらざる処これ有る歟云云」(三二-四七頁)と記している。
下山兵庫五郎という人は、身延山の西谷から北東へ約五キロ程離れた所に下山という地名があるが、その地頭で兵庫助光基のことであるといわれている。
念仏を信じ、阿弥陀堂を建立して、その子因幡房に読経させていた。
たまたま日蓮聖人が身延山へ入られた後、因幡房はその教化によって信伏し『阿弥陀経』に代えて『法華経』を読誦した。
父の兵庫五郎はこれを知って怒り、因幡房をせめたため、これに代って書を記し、その改心をすすめたのが本書である。
即ち日蓮聖人が因幡房の名で代筆し、その父兵庫五郎に書き送ったものである。
なお『啓蒙』には『日統抄』の一説を引いて「下山殿の御内に奉公せし人の子に因幡房と云へる出家これあり」とあって、奉公人の子であるとしている。
また平賀日意の御書端書には「下山郷の内平泉寺と云処に因幡房を別当としておかれたり、本は天台宗なりしが吾祖へ帰伏し、祖師へ御書をかゝせまいらせ自身作文のやうにして下山殿へまいらせたり」とあって、天台宗からの改宗者であるとしている。
いずれにしても因幡房は、日蓮聖人によって教化された者であり、日永と名のっていたことがわかる。
本書は別名「下山鈔」ともいわれており、本書によって下山兵庫五郎は改宗したと伝えられている。
因幡房と下山兵庫についての詳しい経歴については、資料が乏しくつまびらかではない。
内容はまず「朝夕例時の勤行において、阿弥陀経を読むように」との申しつけであるが「此四、五年が間は退転なく例事には阿弥陀経を読み奉り候しが、去年の春の末へ夏の始より、阿弥陀経を止めて一向に法華経の内、自我偈読誦し候」とあって、念仏から法華に改めた事を述べ、次いでその理由を明らかにしている。
即ち法華経と『阿弥陀経』等の諸経とでは、勝劣浅深の差も一重二重ではなく、天地雲泥の差があり、法華経が真実の経典であって、権大乗の経教とは、遙かに異なったものである。
しかるに今、日本中では世間の智者が時期と機根をわきまえず、権教をもって実教の如くに思い込んでしまっているため、法華経をゆるがせにする者が多くなっているのである。
華厳・阿含・方等・般若等の諸経は、すべて法華経の初門であり方便の説である。
また仏の滅後一千年の間に弘まるべき教えと、二千年の間に弘まるべき教えと、二千年以後末法の時代に弘まるべき教えとは異なるものであって「今の時は上行菩薩等のご出現の時に当っている」のであり、まさしく法華経の大戒によらなくてはならないとしている。
また法華経を始め『涅槃経』や天台・妙楽・伝教等の諸文を引いて、小乗や権大乗では末法の人々は救済できない旨を説いている。
その一例として良観房を挙げ、彼の祈雨の法験なきことから、彼らの大科を知るべきであるとし、彼らの讒言を用いるならば、所詮日本国は亡国となるであろうと説いている。
文中には良観房のことを「両火房」と記しているが、これは『王舎城事』(文永一二年=一二七五=四月一二日述作)の中で、「両火房と申す謗法の聖人鎌倉中の上下の師なり。
一火は身に留りて極楽寺焼て地獄寺となりぬ。
又一火は鎌倉にはなちて御所やけ候ぬ」(定九一六頁)とあるので、小乗戒に固執した良観房を両火房として書き表し、批判したものである。
次に伝教大師が奈良の六宗を始め、禅・真言をも厳しく批判して来た事を挙げ、更に慈覚・智證の両人は伝教の師説にそむいて、密教に付き亡国の先兆となったとしている。
そこで亡国を救うべく『立正安国論』を撰述して、幕府を諫めたところ、逆に日蓮を暗殺しようとたくらみ、大事の政道を自ら破ってしまった。
その上更に日蓮を伊豆へ流罪して、幕府が自ら法律を無視する暴挙をした事に及んでいる。
竜口から佐渡を経て、文永一一年に身延へ入山した過程を記したあと「国恩を報ぜんがために三度までは諫暁すべし。
用ひずば山林に身を隠さんとおもひし也。
又上古の本文にも、三度のいさめ用ひずば去れといふ。
本文にまかせて且らく山中に罷り入りぬ」と語る。
また念仏について、法華経と『阿弥陀経』との比較を行い「四十餘年未顕真実」の『無量義経』の文を引いて、『阿弥陀経』も四十八願・極楽世界もすべて未顕真実の教えにほかならないことを明らかにしている。
下山兵庫が念仏の信者であったために特に念仏を厳しく批判しているが、併せて真言宗や禅宗に対しても「法華経誹謗」による堕地獄の者であると折伏している。
最後に『阿弥陀経』をやめて日蓮聖人の教えに従って法華経を読むようになったのは、両親のためであり真実の教えに従って、誤ちのない信仰を進めて行きたいからであることを明らかにしている。
即ち「悉達太子は閻浮第一の孝子也。
父の王の命を背きてこそ、父母をば引導し給ひしか。
比干が親父紂王を諫暁して、胸を屠(ほ)られてこそ、賢人の名をば流せしか。
賤み給ふとも小法師が諫暁を用ひ給はずば、現当の御歎きなるべし」と述べて、仏や賢人の例を挙げ、真心からの諫言であることを強調しているのである。
あくまで「僧日永」の立場で筆を執っており、権教を開会して法華の正法に帰入せしめようとしたところにこの書の目標が置かれているのである。
なお『身延町誌』によると、日永は下山兵庫介光基の一子次郎で、最蓮房とも旧知の間柄であったといわれている。
本国寺はその館あとであるという。
《『遺文辞典』歴史篇「下山御消息」の項、『日蓮辞典』「下山御消息」の項》