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日輝(優陀那院)

にちき #3095

日輝(優陀那院)

にちき

(一八〇〇-五九)
優陀那院と号す。
近世日蓮宗学の大成者と称揚される学匠であると共に、明治初期の日蓮宗を担った指導者たちを育成した宗門育者。
寛政一二年三月二六日、加賀(石川県)金沢に生る。父は野口氏、母は円山氏、その第四子で幼名は駒三。
九歳の、母の誓願に任せ、慈雲寺の大信院日行の門に入り出家剃髪し覚と称した。
師日行寂後、妙立寺の智禅院日雄に師し、名を堯山日輝と改め、行学二道に精進した。
日雄の師たる立像寺日静は、日輝の非凡なることを見抜き、学資を支弁して京都山科檀林に遊学させた。
しかし当檀林教育は、天台学を先にし宗学を高学級に課することを基本方針とし、しかも給仕第一、信行第二、学問第三とする育が行われていた。
かかる台学偏重の学風を嘆き、宗学の衰微を憂えた日輝は、たまたま解行兼修の師として名高い本妙日臨(一七九三-一八二三)が深草に滞在していることを聞き、その会下に参じて親しく法義を学び、信解を固くした。
日臨から受法した日輝は宗義の奥旨を探り、祖意の深義を究めんとの大願成就のため昼夜を別たず刻苦勉励したが、日臨はもなく深草を去って身延醒悟園に閑居した。
これをに日輝も山科を去り、研学のため関東を目指し、途中、身延に詣り醒悟園に日臨を訪れ深義を相伝した。
しかし関東の檀林にも宗学の見るべきものはなく、教えを受くべき師も得られず、僅に一向宗の駒込西方寺を訪れて、住持と華厳・真宗の義を論談したと伝えるのみである。
加賀金沢に帰った日輝は立像寺境内に草庵を結び、日臨の遺風に則り、内観を専にし解行兼修し、厳寒水浴、単衣絶食、昼夜坐禅の厳しい精進を重ね、遂に独悟、聖人の真意を体得し、以後は著作と説の日を送ることとなった。
日輝は三〇歳の、日導の『祖書綱要』を修正した『祖書綱要正議』を著し、自己の宗学的立場を明らかにした。
代に応した新な宗学を樹立せんとする日輝の講説は、宗学界に一大反響を呼び、求道の情熱に燃える青年学徒が全各地より日輝の下に雲集してきた。
の学徒が集まるにつれ、怨嫉誹謗をなす者も現れ、保元年(一八三〇)、遂に日輝の学説は異端として告訴されたが、奉行所における陳述により真相は明らかとなり、日輝の学解行は藩主の称賛を受けたのである。
保の初め、師日静は病のため立像寺住職を日輝に譲ろうとしたが、俗を厭う日輝は再三固辞し続けた。しかし保四年、師の病勢化に及び遂に立像寺の法灯を継承したのである。
そして来集した学徒のため、日輝は新たに学舎を建立し「充洽園」と称し、子弟育に専念した。
日輝は従来の檀林の学風を廃し、日蓮聖人遺文を中心とし、台学は補助学とする学風を樹立し育した。
弘化四年(一八四七)、大乗寺日華を通じて水戸檀林の再興を屈請され、嘉永元年(一八四八)水戸に赴き、三昧堂檀林に『法華玄義』を講じ学風を高揚して帰
嘉永三年には池上南谷檀林の懇請により三・四年の両に亘って筵を張った。
宗門積年の弊風を打破し、宗学改革を叫んだ日輝も旧弊牢固として一人の力では如何ともし難く、これ以後は二度と金沢を出ることなく、充洽園に籠って後進の育成と著作に専念し、改革は後日に譲ったのである。
安政二年(一八五五)頃から日輝は四大不調を覚え病床に在ることが多くなったが、法華経別頭の妙義を後世に遺さんことを企図し、死への予感からか経末の勧発品から逆次に述を開始した。『妙経宗義抄』がそれである。
しかし涌出品に至り本門分を終る、病極まり遂に再び立つこと能わず、安政六年二月二三日立像寺において六〇年の生涯を閉じた。
遺骨は初め十一屋村に葬り、後に改めて立像寺に葬られた。
門下には桓睿日智・津川日済を始め、立像寺を継いだ日成、明治維新後の宗門の難局を荷って興隆に導いた日薩・日鑑・日修・日阜らがある。
日薩らは後に日輝の遺徳を追慕して身延・池上に碑を建立した。

日輝の宗学は、遺文註釈において『安国論』を重視せず、『本尊抄』『総勘文抄』等の観心義を重視するところから「観心宗学」と呼ばれ、主知的論的である点に特色がある。
日輝の学的系譜は日臨よりの直接相承を主とし、元政・日遠より人格的影響を受け、日導・日透の学的系統を引くものであるが、これら先師の学を基礎としつつ、独自の時代観によって創造されたのが日輝の聖人直爾以信体得の宗学的立場である。
日輝宗学はまた幕末多難な代の危意識の所産でもある。
ち寛政から安政に至る日輝の一代は、日本の一大変革期でもあり、開国・攘夷の論争は盛んで、儒学国学の排論は熾烈を極め、西洋の新知識が流入し、多くの知識人が覚醒を叫んでいた。
かかる未曾有の危にひとり堕眠を貪っていた教界は正に倒壊せんとしていた。この時に宗門改革、宗学再興を計ったのが日輝である。
日輝は宗学を時代に適応させることが第一義的問題であり、聖人の教学に時代性を持たせることが宗学の任務、目的であるとした。
そして日輝は代意識を基準として、但信無解より有信有解を、折伏より摂受を、教相より観心を、一尊四士より大曼荼羅を、それぞれ祖意に叶うものとして選択し勧説した。
日輝は縛、祖縛、自縛の三縛但脱を説き、更に聖人の時代と江戸末期とは時代性に相違があるから教義・布教方法ともに変化することを認識せよと主張し、聖人以来伝統の折伏正意の化導法を不相応としたのである。
この徹底した日輝の摂受論を、後に田中智学聖人の本旨に背くものと批判している。
そして儒学学の刺激を受けた日輝は実学を提唱した。
ち心を本とし修身平天下の宗学を実学というのであるが、この実用的価値を重視する主張もまた、文明開化の代の急速な変化に対応せんとするところに生まれたものである。
要するに日輝は幕末変革の代相を背景として、宗門伝統の祖述的訓詁的な教相教理の学を廃し、批判的進歩的な実際的宗学を興したのである。
従って日輝宗学は極めて理智的学解的であり、化儀においても折伏排他主義を捨て寛容な摂受開会の立場に立って代社会との調和を計らんとしたのであった。
更に内省を重んじ持律持を勧め、学解増進を尊び、身是の体得に努めることを主張し、三学兼修を勧めて僧徒を覚醒させ、その質的向上により儒学学と対抗しようとしたのである。

なお日輝の主な著作に『一念三千論』『本迹帰宗論』『宗義抄』『綱要正議』等があるが、その著述・尺牘のすべては『充洽園全集』全五巻に収録されている。
《『充洽園全集』、望月歓厚『日蓮宗学説史』、執行海秀日蓮宗教学史』、『日蓮辞典』『日本仏教人名辞典』『史大辞典』一一巻「日輝」の項
(小松邦彰)

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