日昭(大成弁阿闍梨・不軽院)
日昭(大成弁阿闍梨・不軽院)
にっしょう
(一二二一-一三二三)
字は弁また大成弁阿闍梨、不軽院と号した。
日蓮聖人門下の本弟子の中の筆頭に挙げられるが、その伝は不祥。
また宗門史書として有名な日潮の『本化別頭仏祖統紀』と『玉沢寺伝』を記録した境持日通の『玉沢手鑑』とを対照してみると、両親・出生地・出生年、ひいては経歴や世寿等大きく異なっているのみならず、同じ日通の著作によった『御書略註』もまた『玉沢手鑑』と少し異なっているので、その所従に迷うが、いま『玉沢手鑑』によって、両親・出生地等の日蓮聖人門下に属するまでの経歴を略記すれば次の如くである。
日昭は「下総国(現在の千葉県北部と茨城県西部)猿島郡(さしまぐん)印東(いんとう)領能戸村の産」(『御書略註』は猿島郡を海上郡〈うなかみぐん〉といい、『本化別頭仏祖統紀』は下総国葛飾郡平賀郷という)で、姓は藤原(『別統』は平)氏を印東(『別統』は畠山)父を印東次郎左衛門尉祐照(『別統』はただ祐昭、『略註』は印東二郎左衛門尉祐昭)といい、母は同氏伊東大和守祐時の娘(『別統』には何ら記する所なく、『略註』は工藤左衛門尉祐経の嫡女にして、伊東大和守祐時の姉)にして棧敷の尼御前あるいは妙一尼と称ばれた人である。
兄は印東三郎兵衛尉祐信といい、後に左衛門尉に任ぜられ、後年、日昭の弟子となった智満丸日祐、福満丸日成の父である。
姉は池上左衛門大夫康光の妻となり、宗長・宗仲の母である。
妹は平賀二(次)郎有国の妻となり、日朗を産んだが有国が早世したので、同氏平賀左近将監忠治の許に再嫁して日像・日輪を生み妙朗尼と呼ばれた。
一般に日昭は聖人より一歳年長で承久三年生れといわれる。
幼年にして出家し、字を成弁と号し、比叡山に学び博識多才にして有名になった。
聖人と同学といわれ建長の初年頃、一宗建立について日蓮聖人と日昭の二人で秘盟したという。
ここにおいて建長四年(一二五二)に日昭は俗甥の吉祥丸(後年の日朗)を日蓮聖人の弟子にしたという。
日昭は摂政近衛左大臣兼経の猶子となり、法印に任ぜられた(『略註』によれば、これは母親の縁によるという)。後年の話であるが、兼経の娘の宰子は将軍宗尊親王の息所となり、将軍惟康親王を生んだ。
この縁をもって、惟康親王は宗牒を発行し、また親王の一言をもって池上宗長(実には宗仲)は親の勘気を許されたのであると伝える。
『本化別頭仏祖統紀』によれば、日昭は比叡山では尊海を師として学び、法苑の麒麟児であったので、藤原氏の猶子となり、尊海より日蓮聖人の名を聞き、建長五年(一二五三)、鎌倉松葉谷に日蓮聖人を尋ね、弟子となり日昭と名づけられたという。
これらの所伝の一つ一つについてはその真偽の程は定かではないが、日通が玉沢在位の時(一七五六-六九)は歳首の賀を近衛家と互いに通じていたというから、日昭と近衛家とは何ほどかの関係を有していたのであろう。
その後の日昭の行跡は定かではないが、鎌倉の浜に小庵を構えて布教に従事していたようであるが、日蓮聖人の活躍に比すれば、あまり目立たなかったようである。
文永八年(一二七一)の龍口法難の折は、聖人門下の道俗も捕えられたが、日昭は捕えられることもなく、佐渡在島中の聖人を訪ねたこともあったとするからであろう。
文永九年正月一七日に聖人と日昭とが問答した記録が『法華浄土問答抄』(真蹟断存)であると伝えるが、これに弁成とある人物は成弁日昭とは全く別人で、問答内容も浅近で日昭の疑難とは思われない。
この記録はいまおいて、聖人は日昭を通して鎌倉残留の弟子・檀那の教養、指導にあたらせている。
聖人が身延に嘉遯した後も、日昭は主として鎌倉に在って、日蓮聖人が鎌倉に築いた教団を支えていたのである。
聖人は日昭を称ぶに、弁阿闍梨・弁殿と尊称しているし、また前述したような事情から、日蓮聖人は日昭をもって補処の法器となし、自ら法陣に倒れれば、日昭をして第二陣に当らしむる覚悟であり、日昭もまたその使命に顧み、緇素の教養と一門の結束とに努め、折伏逆化迫害多難の聖人をして後顧の憂いなからしめたといわれるのである。
弘安五年(一二八二)一〇月、聖人は池上に在って病篤く、本弟子六人を定めたが、日昭は上首に挙げられ、同年一〇月一三日聖人が遷化されるに及んでは日朗と共に葬送の式を督し、遺品として聖人所持の『註法華経』(現存)を譲られ、遺言によって遺骨を身延に送った。
更に身延守塔の制を定めては、日昭もまた守塔して居を営み、常不軽院と名づけ、南の房とよばれた。
同七年、鎌倉浜の庵室を経王山法華寺と号した。
かくて聖人滅後、日蓮教団は身延を中心に日昭ら本弟子六人による合議により運営されたが、特に鎌倉にあっては、弘安七-八年頃、幕府は日蓮教団に弾圧を加えてきたので、弘安八年四月、幕府に申状を提出して陳弁諫暁し、鎌倉教団の壊滅を比企谷の日朗と共に救い、正応元年(一二八八)九月には日蓮聖人の七回忌の師恩報謝のため『経釋秘抄要文』一巻を著した。
また日蓮聖人の一周忌に当り、日蓮聖人の遺文の目録を作り、これが後世の録内目録である等のことが伝えられているが、これは事実無根のことである。
永仁三年(一二九五)四月には日像に守本尊(現存)を授け、華洛弘通の成満を勧奨したと伝え、また永仁七年春には日朗と共に中山に日常の疾を問い、兼ねて日頂の勘気を解くように請うたが、日常は遂にこれを承知しなかったという。
正安二年(一三〇〇)四月八日には京都において日祐に本門円頓戒相承血脈譜を作ってこれを授けた。
徳治元年(一三〇六)越後守風間信昭の外護により相模名瀬に法王山妙法寺を開き、同寺に移ったが、徳治二年に弟子日成に譲状を与えて同寺を付し、法華寺に帰った。
妙法寺は後に信昭の任国たる越後(新潟県)村田に移った。
文保元年(一三一七)一一月、譲状(譲与本尊聖教事、遺跡之事の二書)と共に法華寺を日祐に付し、のち七年にして元享三年三月二六日に入滅した。
世寿は『玉沢手鑑』によれば一〇四歳、『御書略註』によれば一〇三歳、『別統』によれば八八歳である。
日昭の著述は概ね前記した如くであるが、その教学は『経釋秘抄要文』について伺うことができる。
本抄において、日昭は立義を一九項目に分け、各項目は経文を引用、羅列することによって消釈され、末尾に二〇〇字程の自身の見解を付した小論であるので、組織的教義を知ることはできないが、その大要は法華経と諸経を相対し、法華経の一念信解の功徳は余経に明す五波羅蜜の行に勝れ、法華経を持つものは戒定慧の三学を具備するというのであるが、これを細分すれば次の如くである。
本尊については釈尊一仏のみこの世界の教主にして主師親三徳有縁の仏であり、十法界ないし国土草木に至るまでの万法の本地であって、衆生を救護するといい、いわゆる人本尊の立場に立つようである。
法華経については「法華は真実の説にして成仏の法なり」といい、また「法華経は諸経に勝れ」「余経は虚妄の説にして不成仏の法なり」と権実については述べているが、本迹の問題は何も説いていない。
経の用については「易行なり」とも「末法相応の法なり」とも「此の国に相応なり」ともいう。
題目については特別に深い議論はないが、「題目は薬なり、信心は養性なり、謗心を嫌へば毒を断つなり」と唱題正行、信心助縁を説き、「信心堅固なれば一生に平癒す。
信心中程なれば次生に、下品なれば未来際に本復す」と信心の強弱によって、一生、次生、未来際の三生得益を説いている。
三生得益の益について「夫れ妙法蓮華経とは色心清浄の良薬なり。
人に二病あり、一には心病、貪欲・瞋恚・愚痴の迷に付いて八万四千の病あり。
二には身病、地水火風に付いて四百四病あり。
此の身と心との病を題目の功徳に依って皆癒えて、身は法報応の三身如来と成り、心は空仮中の三諦法性と開くなり」と説いている。
即ち色心二法の迷を脱し、身は如来と成り、心は法性の境界に安住するというのではあるが、明瞭に即身成仏を説いてはいない。
よって前言の三生得益の益も即身成仏とは大きく隔りがあると見てよいであろう。
また行については「法華五種の妙行有り難し」と五種の妙行を挙げてはいるが、特に受持一行に約して説いている点は見当らないようである。
また「法華経を修行する女人は弥陀の浄土へも往生す」と説いて法華経による浄土往生を認めている。
戒壇については古来から日昭門流は叡山の戒壇を踏むという批難があったが、本抄においては何ら記するところはない。
《望月歓厚著『日蓮宗学説史』、久住謙是編『日蓮聖人補処位の人 日昭』、『遺文辞典』歴史篇「日昭」の項、『昭和新修』別巻「弁公日昭」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人と六老僧」の項、『日蓮辞典』「日昭」「弁殿尼」の項、『日本仏教人名辞典』『国史大辞典』一一巻「日昭」の項》
(若杉見龍)
図版