日隆(慶林坊)
日隆(慶林坊)
にちりゅう
(一三八五-一四六四)
法華宗(本門流)、本門仏立宗、本門法華宗、その他八品門流系の祖。
至徳二年、越中富山射水郡浅井郷(富山県射水市大門町)に生まれる。
父桃井右馬頭尚儀、母益子、幼名長一丸、一〇歳で越中遠成寺に入り深円と称す。
応永九年(一四〇二)一八歳で上洛し妙本寺(妙顕寺)日霽の門に入り伯父日存叔父日道の学室に入り慶林坊(桂林房とも)日立(永享五年日隆と改める)という。
応永一二年日霽が示寂。後住、具覚月明の化儀、化法の乱れを存、道両師らと再三諌めたが聞かれないので、妙本寺改革派の寺衆二〇余名と共に出寺し五条坊門西洞院の柳酒屋の像師堂に拠る。
『両山歴譜』応永一二年の項に「月明貫首ヲ嗣グ此時ヨリ初テ本迹一異ノ諍論オコル。大イニ末法下種ノ時機ヲ失ス。コノ故ニ存道隆ノ徒二十余輩ハ月明ヲ諌言(略)之ニ由テ師出寺アソバス」とある。
日隆はまもなく叡山、三井、高野などを訪ね諸宗を学び、また越後本成寺日陣らの門下諸流の碩学を訪ねて教学の研鑽にはげむこと十数年に及ぶ。その間日隆を援け存、道両師も四方に馳走往詣し本迹勝劣教学の資料収集に努める。
その間は像師堂を中心とした諸坊に居し、ある時は叡山徒に破却された妙本寺再興運動に協力し本応寺建立を志すこともあったが、月明及びその付弟具円らの化儀、化法等が改まらないのみならず日隆らを擯斥すること甚だしかった。
『本能寺記』によれば応永二二年、同二五年には日隆によって本応寺が次々建立されたが、いずれも月明によって破却の難に遭ったとある。
日隆は難を避け諸方に遊化し応永二三年越中に元成寺(後の本光寺)を、同二七年尼崎に本興寺を、翌年河内三井に本厳寺を、同三三年越前敦賀に本勝寺を、同じく色ケ浜に本隆寺、一乗谷に正法寺等を創立した。
永享元年(一四二九)諸堂宇完成した尼崎にいた日隆は、京都六角室町の豪商小袖屋宗句の請いをうけて上洛し内野(千本京極付近)に一宇を創し本応寺と号した。
この年、撰してあった本迹勝劣、本門八品上行所伝の宗要を闡明にした『法華天台両宗勝劣抄』(『四帖抄』)を洛中の各派諸山に廻達し、教学独立の法幢をかかげ本応寺存立の意義を明らかにした。
この正統教学再興の書は諸山の学匠に大きな影響を与え、その後光長寺日朝が本能寺におとずれ、大石寺日有の化儀抄に八品教学思想がみられる。日隆四五歳である。
同五年信徒の如意王丸が願主となって六角大宮方四町の芒地に内野より移り堂宇を新築し本能寺と改め京都における本寺とした。
同七年駿河岡宮光長寺にて興学布教に努めていた本果院日朝が『四帖抄』を見て深く共鳴して上洛、宗要を談じ道契をむすび甲斐(山梨県)・駿河(静岡県)・伊豆に本門八品主義の法陣を張り、本国寺、蓮華寺、本蓮寺、安立寺等を創し、本果院日朝は文正元年(一四六六)一〇月休息山立正寺で入寂七三歳。
本能寺は永享一〇年(一四三八)頃に境内に慈眼院・円光院などの塔頭が並び、非人風呂が建つなど次第に洛中における寺風を整え、日隆は京都・尼崎を往還しながら教団の基礎を固めていった。
嘉吉二年(一四四二)に中国・四国地方を巡化し、江本蓮光を教化し備中の本隆寺を創し、兵庫久遠寺、淡路島妙勝寺、備前本蓮寺など妙本寺末寺は日隆に帰伏し本能・本興両本山末となる。讃岐本妙寺、堺顕本寺などを創建し大いに教化の実を挙げる。
内には文安四年(一四四四)六〇歳、「本能寺大衆信心戒条目三ヵ条起請文」を記し、衆徒二七名に連署させ、六六歳、入滅後の本興寺住職の制定を遺言し、五ヵ条の法度を讃岐本妙寺へ送り、翌年には信心法度一三ヵ条を定め教団の基本姿勢を示しつつ、本能寺を弟子日信に、本興寺を日登に与え、布教の合間に『御書文段集』『十三問答抄』『名目見聞』『六即私記』『私新抄』『一帖抄』『玄義一部見聞』『玄義要文』、『当家要伝』『玄文止』並びに『諸御書立書』等を著して学徒の教育に資し、本迹勝劣教学を学ぶ門下の子弟のために享徳三年(一四五四)七〇歳時本興寺内に勧学院を創設す。
六三歳頃からは布教をとどめ本興寺内文庫堂にあって一期の研究成果を後世に遺し、本迹勝劣の正義が誤まることなく伝えられんことを願っての述作に専念し、七三歳頃にかけて『本門弘経抄』『開迹顕本宗要集』『三大部略大意』など長篇教学書を遺した。
老躯に精進の姿は「記者既に六十九なれば廃亡の義これあるべし、悲しい哉悲しい哉」(本門弘経抄嘱累品の末尾)とある。
日隆の学的態度は「当宗は広学多聞を好むべからず、広学多聞は末世の正意にあらず。末世の正意は(略)仏以要言之して総じて本門八品、殊には分別品の後半より広学多聞の六度三学を以て妙法蓮華経の要法に収め廃事存理して初心を益するなり」(『本門弘経抄』)「本門の本尊の出処は涌出品已下八品なり。是の上行付嘱の本尊は釈尊出世の本懐なり。されば諸御抄の中には観心本尊抄を以て総の肝要と為す。」既に八品を以て滅後の本尊と為し下種結縁を成ずるなり」(『本門弘経抄』)とあって多聞強識を目的とする学問を廃し、当時流行の教相否定観心偏重の中古天台教学の本迹一致を弾じ、本迹勝劣の日蓮聖人の諸御書を能開能照とする信行観心の真摯な求道者であると同時に熱烈な弘教者であった。
古来身延の学匠日朝と比肩され東朝西隆と尊称されているが、日隆は宗義に関するものばかりであり信仰的な実質主義な著述が多く、両山二八世日顕の『御聖教目録』によれば三百数十巻が記録され尼崎本興寺に格護され遂次刊行されている。
寛正四年(一四六三)五月一三日、日隆は本能寺法度七ヵ条を定め本能・本興両寺一寺と定め、門流所帰の本所を定め同五年二月二五日入寂、八○歳。
日隆の直弟は数十名を下ることなく、受学の徒もまた数百名を下ることがない。
そのうちの六老として好学日信、精進日登、好学日明、精進日禎、金剛日与、金剛日増を挙げ、日与は日隆寂後の教団の支柱として『法華和語記』等の著を残し、日増はその後の教団を護持して次の伏見宮日承への教団の大拡張へ継なぎ、また永享一二年改衣した寺門の学僧常住日学は日隆を援けて興学に励み、その日隆聖人三七日忌の法則は重要な初期教団の資料である。
本成日浄は堺にあって町衆の教化に功あり、定源日典は種子島に殉教弘通の誉れ高く、浄光日良も種子島三島皆法華の勲功を挙げるなど日隆の遺業は今日もまだ続けられている。
《宮崎英修『日蓮宗の人びと』、『日本仏教人名辞典』「日隆」の項、『国史大辞典』一一巻「日隆」の項》
(松井孝純)