日真(常不軽院)
日真(常不軽院)
にっしん
(一四四四-一五二八) 大経房といい、字は慧光、常不軽院と号した。
文安元年但馬(兵庫県)城崎郡(現・豊岡市)九日市に生まれた。
父は中山権大納言親通(一説には中納言)であり、母は山名伊予守時義の女であるといわれている。
六歳の時に山名家の菩提寺たる妙境寺の日全について出家得度した。
一八歳(一説には一二歳)の寛正二年(一四六一)比叡山・三井園城寺に遊学し、二三歳の文正元年(一四六六)に妙本寺に入って宗義を研鑽した。
妙本寺はその頃、日具(妙顕寺前住)の代であり、日具は応永三〇年(一四二三)の生まれで月明に師事し、日明と名のった。
ところが月明には前に日明という同名の弟子がいたため、両者は混同されて扱われる結果となった。
即ち前の日明は藍婆丸と号して、後の日明とは全く別人である。
後の日明は日具と名を改め永享一二年(一四四〇)一八歳で師跡をついでいる。
日具は後に妙本寺を弟子の具能にゆずったが、寛正四年(一四六三)に三七歳で遷化したため、再び日具が住職をしていた。
この時に日真は妙本寺へ来たのである。
日真はここで宗義を学び、特にその当時、盛んに論義されていた本迹勝劣について心を用い、本能寺や妙蓮寺などの本門を勝とし、迹門を劣とする一派の教義を研究した。
なかでも妙蓮寺内に道輪寺学室を設けて門下を教育していた日忠と親交をむすんだ。
文明二年(一四七〇)から天台の三大部を研究し、数年で文段及び科文を註記した。
また同一七年四二歳で『観心本尊抄見聞』上下二巻を著したが、この頃すでに碩学・学匠といわれる程であった。
『日像門下分散由来記』によると、長享二年(一四八八》)の夏に、大林坊日鎮の坊で同宿講があった。
この時に泉乗坊日儼・能乗坊日佳・城所坊日恕らを始め同心の僧一〇数名が集り、日真も加わって一致・勝劣の論談があった。
ところが日真はこの時論破されてしまった。
そこで日儼らは日真に対し今後勝劣義を主張することは無用であると言いわたし、更に備中国(岡山県)野山に隠棲中の師匠日具に起請文を出して改悔すべきであるとし、案文を認めて書かせようと迫ったが、日真らはそれに応ぜず寺を出たと伝えられている。
また『慧光山伝燈録』によると、日真が同志ら三〇余人と日具のもとに至り、本迹の勝劣を明確にして、すべからく本門中心の立場をとるように進言した。
日具は本迹問題については鋭意研鑽を積み、一往は本迹の勝劣について区別をつけるが、再往は本迹一致でなくてはならない、という説に立っていたので、日真のどこまでも勝劣をつけようという説とは相い容れないものがあった。
このため日真の申し出に対し日具は色をかえ声をはげまして「法門の幽微汝輩の知る所にあらず」といって座を立ったと伝えられている。
かくして日真は同志らと共に日具のもとを去り、独立して一派をなすに至ったものである。
『日蓮教団全史』(上)によると、長享二年(一四八八)五月より翌三年に至るまでに、日具は前後三回にわたって妙本寺へ書状を送り、日真の勝劣説を破し、妙本寺・大衆に対して「一往は勝劣、再往は一致」という日像以来の立場を明らかにしている。
日真の起こしたこの本迹勝劣の波紋は大きく尾を引いて、九年後の明応七年(一四九八)一一月の日具十九ヵ条にも、更にくりかえし教示されている程である。
日真は延徳元年(一四八九)四六歳の夏に、大林房日鎮・越前(福井県)の本因房・加賀(石川県)の三位房・丹後(京都府)の少納言等その他の同志と共に妙本寺を出て別に一寺を四条大宮に建立し、これを本隆寺と号したのである。
日真の立場は法華本門の寿量品に中心を置いて、迹門は久遠実成が説かれていないので、本門よりも劣っているとし、寿量本果実証の上行所伝の南無妙法蓮華経を唱えて、迹門を軽視する傾向にあったのである。
日真はこの年に若狭(福井県西部)へ布教に出かけて本境寺を建立、越前(福井県東部)では真言寺を改めて本興寺とした。
また平等会寺の顕本院日唱は、日真の本迹勝劣義に帰伏し、末寺一三ヵ寺を率いてその門に参じた。
明応七年日真は五五歳の春を迎えた時、後土御門天皇の内命を拝して、『天台三大部科註』を書写し同九年に完成した。
文亀三年(一五〇三)一〇月にこれを後柏原天皇へ献上したところ天皇大いに賞せられて、三大部外題の宸筆色紙を賜い「大和尚位」を授けられた。
また日真は同じ本門を中心とする本能寺や妙蓮寺と親しかったが、後に寿量品のみを主張したので、この両寺とも相い反することになっていった。
即ち明応の末から文亀の初めにかけて、越前本興寺で宝塔供養会が開かれたが、この際本能寺日増・妙蓮寺日忠・妙満寺日崇らと説法が行われた。
ところが経文の解釈をめぐって、日忠と日真は対立し、本門八品を正意とする日隆門下の教学を否定し、寿量一品を正意とし、更に本因下種論を説くのに対して、本果下種論を主張し、全く反する立場をとるに至ったのである。
かくして日真は勝劣派の中にあっても、寿量正意を主張し、他の派と相い容れないものがあり、後に日真門流とよばれ、本隆寺派と称されるに至ったのである。
享禄元隼三月二九日に八五歳で遷化した。
この一派の中には、寿量院日鎮・顕本院日唱・本是院日映・慶隆院日諦・証誠院日雄らの著名な学僧があり、更に要法寺の広蔵院日辰もこの一派に加って学んでいる。
日真の著書については、天台学関係のものが多く、宗学に関する直接の資料は伝っていない。
先の『天台三大部科註』三〇巻の他に『科註法華論』六巻、『護持此経論』『法華十妙不二門科文』各一巻等がある。
また日真は専ら中国天台に中心を置き、わが国の慈覚・智證・慧心・檀那の学説は用いなかったと伝えられている。
これは日真が当時の中古天台における観心主義を排したことを証するものであるともいわれている。
結局日真の教学は一部修行、本勝迹劣を特色とするものであり、ただ寿量品を中心とする一品二半のみを正意とし、事一念三千・本果実證を宗旨としたのであった。
こうした日真の教学はその門下によって受け継がれて行ったのであるが、特に慶隆院日諦の弟子である承慧院日修によって大成されていった。
しかしそれらの教学は必ずしも同一ではなかった。
《『本化別頭仏祖統紀』、『日蓮教団全史』上、執行海秀『日蓮宗教学史』、望月歓厚『日蓮宗学説史』、宮崎英修『日蓮宗徒群像』、『日本仏教人名辞典』「日真」の項、『国史大辞典』一一巻「日真」の項》
(上田本昌)
図版