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日本仏教社会事業略史

にほんぶっきょうしゃかいじぎょうりゃくし #2750

日本仏教社会事業略史

にほんぶっきょうしゃかいじぎょうりゃくし

社会業とは当該社会に生じる貧困・無知・犯罪・疾病・非行等によって、自立や適応の困難な個人や家族の諸問題を個別的に解決しようとする社会的実践であって、人道的なあるいは宗教的な立場から、それらの人々を救済する福祉活動一般をいうのである。
その発展過程からみると、その原点は宗教的な慈活動であって、社会の人間生活を向上改する目的に立っている。
教的に言えば、慈悲心をわが身に体して、その菩薩道を実践することである。
梵網経』に「我が法に七種の広施福田(ほどこし)を説く、一に仏像、僧房、堂閣を興立し、二には清涼なる樹園浴池を作り、三には常に医薬を施して衆(おお)くの病人を療救(すく)い、四には堅窂なる船を作りて人民を済渡(わた)し、五には橋梁(はし)を作りて渡し、六には道の近くに井(いど)を作りて渇乏(かわ)けるものに飲ましめ、七には道の近くに厠(かわや)を作りて便利を与うべし」と具体的に活動の姿を示していることは注目すべきである。
教の社会業は、仏教伝来以来、一四〇〇年の歴史の中で展開された菩薩道であり、人間平等思想と慈悲の具体的実践である。
本仏教の社会はほぼ次の五期に区分される。
(1)古代的氏族社会制時代と教社会業、(2)封建的支配の時代と仏教社会業、(3)幕藩体制の時代と仏教社会業、(4)明治憲法時代の仏教社会業、(5)民主憲法下の仏教社会

〔古代的中央集権代と教社会
わがの社会業の始まりは、氏姓社会の崩壊から律令統一が成立するまでの過期に求められるであろう。
ち氏姓社会では、氏姓集団の成員は血肉を共にする親子、同胞関係という血族的な相互扶助が実施されても、広く社会的救済という展開は期し難い。
教社会業は氏族社会の崩壊的混乱期に導入された仏教文化を吸収し、統一的中央集権国家を創立せんとする聖徳太子の偉の精神が核となっていた。
太子の代から律令代にかけての家の指導原理は教であり、教は化したのである。
従って、この代の教社会業は公的な立場における国家的業であって、寺も僧も共に公的なものであり、窮民救済の諸業はすべて国家業であり、その救済主体としての僧侶はいわば官僚であり、寺院建造物は有財産である。
聖徳太子の仏教的社会事業は、施薬院、施療院、悲田院、敬田院等の施設によって知られている。
ちこれらの施設は布教、教化事業の宗教的な場であると共に、社会人民の不幸を救済する社会施設であった。
飛鳥代においては、僧侶にして社会業家として道登(入唐僧)は宇治の大橋の架設工に、道昭(六二九-七〇〇)は諸を周遊して井を穿ち、橋を架し、渡船を設け、民利を図ること一〇有余年と伝えられ、彼の死をもって、日本の火葬の初めとされている。
道昭は偉大なる社会業・社会化者の行基の師であった。
律令代の著名な教社会としては、行基、光明皇后をあげなければならない。
行基は家が教に期待した「鎮護国家」に対立して、民衆に現世利益をもたらす道を歩んだ。
従って彼の社会業ないし社会教化活動はしばしば政府の弾圧を受けたが伝えられている。
皇七年(六六八)に生れ、八二歳(七四九)に没している。
伝えによれば僧院三四、尼院一五、橋六、直道一、池一五、溝七等々その広範な活動力は特筆すべきであった。
光明皇后の救癩は著名である。
癩者の血膿を吸啜吐したという伝説も、皇后の慈悲心を証するものである。

〔封建的支配の代と教社会
この代は律令的中央集権が崩れてくる平安中期から鎌倉幕府、室町幕府の前期的封建支配から戦国時代に至るまでの時代と一応規定して、その時代の仏教社会の概観にふれることにする。
この代は律令的支配とは逆に地方分権局地支配、すなわち土地住民の私的支配で、前期まで公的格をもっていた寺院僧侶も、私寺、私僧的格を帯びてきた。
このことは一遍(一二三九-八九)、法然(一一二二-一二一二)、親鸞(一一七三-一二六二)、日蓮(一二二二-八三)等の独創的で自由な立場の開宗教化を見るに至った。
教社会業においても、私的慈救済活動であった。
殊にこの代には内憂外患が瀕発し、社会動乱の連続、民衆の窮乏もきわめて深刻な代であった。
この期の教社会業慈活動の一人として一遍をあげることができる。
一遍はその全生涯を諸遍歴と社会化、救済に投じた。
西大寺を再興した叡尊(一二〇一-九〇)は皇室の帰依に迎合せず、大衆と苦楽を共にし、化活動は勿論のこと、非人、乞食、癩者等の賤民救済に意を注いでいる。
彼の弟子忍性も師の意志を継いで四天王寺に悲田院・敬田院を興し、救癩施設を設けている。
叡尊の弟子にまた極楽良観があったは興味深い。
また大仏殿竣工に功ある重源(一一二〇-一二〇六)は、道路、架橋等の土木に挺身している。
しかし大観すれば、この代の教社会業は、停滞、純化の方向を示し、戦期に入り、次第に凋落してしまったのである。

〔幕藩体制下の教社会
凡そ封建制は、不安定不確実な社会状態より脱して安定を得ようとする要求から生れたものである。
その社会組織の特徴は、主従のタテの関係を貫き、階級的にその社会的位置が固定し、特権を重んずる規制によって支えられていた。
徳川幕府体制は中央集権的地方分権ともいうべき特殊な封建制であり、徳川を頂とする主権者の下に諸侯があり、これに臣従すると同に、諸侯は各々一定の封土を占有し、その領地内における人民を世々統治し、その人民は臣下として諸侯に服従を強いられ、その生を営み、人関係は上下の主従と封土関係によって組織され、その強化された中に一応の安定が築かれたのである。
この中央集権と封土支配諸侯との矛盾体制は一種の統制策であり、宗教集団に対しても、社寺奉行下に各宗派教団の自治的運営が認められ、更に従来からの寺領はほぼ全面的に「安堵」され、なお、特定寺院に対しては寺禄を封与した。
こうした優遇措置によって、宗教本来の布教化、社会救済寺の活動は徹底的に封殺されたのである。
寺院はいわゆる「葬式教」化され、のもつ社会への革新的エネルギーは抑圧された。
こうした情の下に仏教の社会は特に見るべきものが乏しいのである。
しかし社会的矛盾や冷災害等も多発し、それを黙視し得ぬ名僧知識人も数多く進出している。
例えば了翁(-一七〇七)、鉄眼(-一六八二)、西念、良大、禅海、鞭牛等の社会活動が伝えられている。

〔明治憲法下の教社会
この代は資本主義の萠芽と発展の代であり、教は廃棄釈の暴圧を生きぬく苦悩代を経せねばならなかった。
日本資本主義はまず富強兵と々の戦争突入を経て、プロレタリアートの発生による労働争議、あるいは小作争議など、数多くしかも多角的な社会病現象を見るに至った。
政府はひたすら資本の蓄積強化に専念し、窮民の救済は民人(教社会も含めて)によるところ大なるものがあった。
明治九年(一八七六)三月児童救護施設として福田会育児院の発足を見た。
日蓮宗新居日薩は一二年に亘りその会長であった。
日本最初の福祉といわれる。
また山田日真(一英)は立正診療所、報効団簡易宿泊所等の開設に力をそそいだ。
村山の全生病院の救癩医療には日蓮宗としての多大の助成もなされた。
また浅草寺の無料宿泊所等、ようやく教社会は興隆に向った。

〔民主憲法下の教社会
この代は第二次世界大戦の終結が起点である。
わがは、ここを起点として新憲法に基づく「民生存権」を保障し「すべての民は、健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する」ことを憲法第二五条は保障したのである。
その社会業は社会福祉行政の下に集約され、いわゆる福祉六法によって法的基礎がおかれている。
ち生活保護、老人福祉、身体障害者福祉、母子福祉、児童福祉、精神薄弱者福祉等、民生活全般にわたる福祉行政の道がひらけたのである。
教の社会業もまたその行政の中に組入れられ法的な制約を受けると同に、公的な助成もあり、戦後にわかに活発となった。
宗教法人の事業あるいは僧侶の個人として、活動分野は広まりつつある。
例えば養老院、養護施設、救癩施設、保育所、教誨師等多角的である。
日蓮宗に於ては宗規において「本宗の寺院教会並びに僧侶は社会教化事業又は活動を行わなければならない」とされており、「日蓮宗社会教化事業協会」が組織されている。
本宗の救癩業としては、綱脇龍妙(一八七六-一九七〇)は著名であり、その救癩事業は現在身延深敬園として、その精神が受け継がれている。
昭和四六年(一九七一)現在、児童福祉のための保育所は、既に全に普及し一〇〇余を数えている。
その他養護施設四、精薄施設二、孤児院を含めて里親活動九、心配相談室二八等、今後発展増加の傾向あきらかである。
教誨活動は戦後各宗に開放され、刑務所、少年院等、日蓮宗教誨師は全で現在七〇名を数えるに至っている。
かかる積極的進出は単に日蓮宗のみではなく、広く宗教界各宗各派に及ぶものである。
代の進展に伴い、公害列島といわれる日本は、今後更に社会問題が多発するであろう。
教の教義の解説説教に終始するのみでなく、教の社会的価値を昂揚する具体的実践こその生命的開顕である。
寺から里への古言を自ら者の道たらしめなければならない。
《吉田久一『日本近代教社会史研究』、『図説日本庶民生活史』、清水龍山新居日薩』》(三田村龍全)

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