日住(真如院)
日住(真如院)
にちじゅう
(一四〇六-八六)
真如院と号す。
応永一三年京洛方面に生れ、久遠成院日親より一歳、行学院日朝より一七歳年長である。
出家の年代は不詳であるが『与中山浄光院書』(『宗全』一八巻)によれば、日住一四歳のとき、身延の学侶玉泉房日伝がその法器を称揚していることから、このときはすでに出家していたと考えられる。
日住の師は妙覚寺九世大聖院日延である。
日延は三条猪熊に経王山本覚寺を創建した人で、日住は師の跡を継承している。
日住はここに住することが長かったためか、一般に本覚寺日住ともいう。
後年、妙覚寺の第一三世に晋山したのであるが、本覚寺は戦乱のために妙覚寺に合併するに至った。
さて日住は二一歳のとき比叡山に遊学し、東塔北谷虚空蔵院蔵乗房定源法印の会下に列なっている。
この定源は関東金鑽宮談所の第二代の学頭心源法印の弟子である。
心源は金鑽談所の学頭であると同時に、上洛して杉生流の法門を心栄から相承している。
また日住は心源の資祐済、柏原円成寺第二学頭慶舜、月山寺尊叡の資尊舜寺等についても天台宗を学び、二五歳頃には、松原談所に笈を負うている。
その後、師跡を継いで本覚寺に住し、のち妙覚寺に晋山し、晩年には和歌山の真言廃寺を再興して正住寺と号し、ここに閑居。
文明一八年九月一六日、八一歳をもって遷化した。
日住は室町時代中期の代表的な学匠であり、その業績は
(1)大聖日延より受けついだ『録外御書』の蒐集がまずあげられる。
日延は三〇年にも及んで関東諸山を歴訪して御書の蒐集に努めた。
日住はこの日延の業を継承し『法華浄土問答鈔』の書写をなし、文明六年(一四七四)には諸門和睦のために関東に下向し、このとき『諸人御返事』を書写している。この他にも文献的に御書の蒐集が見られる。
(2)日住が三度京都より関東に下向し、諸山の和睦のために尽瘁した業績をあげねばならない。
師の日延は三〇年にわたる関東諸山の歴訪によって日蓮聖人の門下でありながら、諸門流が争っていることをまのあたりにした。
その中でも中山門流と身延との不和は長年にわたるものであった。
この事情を聴聞した弟子日住は師の希望する和睦をいつの日か成就せんと心にかけていたようである。
『与中山浄光院書』にはそのいきさつが、次のようにしたためられている。
「先年御物語申し候しは、ある時、日延、中山と身延との御和睦あらば頸を切らるべしと申して落涙有りしを、日住見てより以来五十年ばかり心に懸りたる和睦の下向にて候を、常様のやうに人存したるは哀と覚へて候。
一は日延の本望を達せんため、一は異体同心の御抄の趣をつぐのひ申し候はんための下向にて候よしを寺寺にて申し候を、皆皆定で御忘れあるべからず候」とある。
日延は宗門の現実を憂い、教団の和睦を心にかけて遷化し、日住は師の本望をとげ、異体同心の聖意に報わんとして、関東へ下向したのである。
そもそも中山と身延は聖人滅後、中山第三世日祐と身延三世日進との間には、極めて親密なものがあった。
しかし中山第四世日尊は法脈異乱、先師違背の行為であると糺問し、中山、身延の親交破壊の端緒となるに至った。
加えて法服着不着の論争がおこり、中山と身延は不和の大きな原因となった。
中山日尊、身延日叡の代である。
その結果、七世日叡より一一世日朝に至るまでの約七〇年間、反目を続けた。
その間、九世日学のとき、両山の和議が成立して小康を得たが、本当の意味での和解は日朝の代である。
さて、日住第一回の下向は寛正三年(一四六二)五七歳のときである。
これ以前に身延から、中山の和融について依頼があったと推測できる。
同年四月に一〇世日延が遷化し、次の貫主に日朝が定まったが、日朝は比叡山へ登っていたため、門徒が迎えに行き、頂妙寺日祝なども坂下へ下向したようである。
日祝はその時親しく法服の問題について尋ね、身延方(日朝)の返事は「日住あひはかられたる事に候間、下向候て申し談ずべく候の由、仰せ候と日祝物語候」ということで「日住は底に万をかかへふくませて和睦候」と述べている。
このことから身延方の依頼がすでに日住にあったものと考えられる。
さて二度目の下向は文明三年(一四七一)であり、三度目は文明六年、六九歳である。
そしてこのとき和議の機が熟し、中山と身延との和融が成立した。
中山八世日院、身延一一世日朝の代である。
日住はその大いなる悦びを『与中山浄光院書』にしたためている。
この和議成立後、日住は身延の御影堂にて法談し、日朝は中山本妙寺にいて法義を談じたのである。
このように日住は中山・身延の和融を測るばかりでなく、京都諸山の和睦を結んだのである。
即ちその業績として、
(3)寛正六年一〇月に、足利将軍に諫暁直訴し、それによって比叡山から京都日蓮教団への弾圧が起ころうとしたが信者京極持清等の尽力によってこれをくいとめ、これを契機として、
(4)寛正七年二月一六日の聖日に「寛正の盟約」が結ばれた。
この盟約の中心人物となったのが日住である。
日住の幕府諫暁の経過と諫暁内容については『妙法治世集』一巻、『諫暁始末記』(『宗全』一八巻)によって、概ね知ることが可能である。
寛正六年一〇月一五日五ツ時、日住は細川前管領勝元の館南の大道にて、北山鹿苑院の別業参詣の将軍義政に対し、目安を揚げて『妙法治世集』を奉上した。
その時の様子は、御小人千若丸が「これは何れより」と問うたのに対し「三条猪熊本覚寺」と答えた。
小人は草案を受けとって輿の中の将軍へ手渡し、義政は度々頂戴し、三度まで頂戴したことは諸人の目にしたところであるという。
日住の善びは一入で、洛中においては「物沙汰にはただ此の事」であって、日住も「御感のよう色々風聞した」と記している。
日住を始め、草案を書写した立本寺日胤はこの諫暁の成果を悦んだのであったが、洛中に喧しく沙汰されると共に山門に聞えて、山門の大衆は本覚寺を始め洛中の日蓮法華宗を破却せんと威嚇するのである。
寛正六年一二月一三日横川楞源院に閉籠した大衆は、洛中の法華堂一九ヵ処に、事書を以て破却の旨を通達して来た。
牒状を受けとった日住は本覚寺を会合所と定めて一八日に諸寺へ触れ回り、一九日集会を開いているが、三九ヵ寺が参集し、勝劣派の六ヵ寺は参加せず、山門へ侘びを入れたという。
この時の諍議は山門奉行へ実否を問うこと、一寺宛返牒の草案を作り、二二日に持参して文書を取拾して返牒をすべきことの二箇を約した。
そして一二月二〇日、法華宗から山門奉行布施下野守貞基、飯尾左衛門大夫之種に破却の実否を尋ねた。
奉行は三塔に問うた処、知らない由を伝えて来たという。
また侍所頭人京極大膳大夫持清は熱心なる法華信者で、ことに日住に帰依した人であるから、持清は将軍、管領始め幕府の要人と議し、布施方へ使者をあて「山門は理不尽に法華宗を破却するという風聞がある。
もしこれが本当であれば、京都の半分は法華宗で、不惜身命の防戦があれば洛中騒乱となることは必然である。
山門から欺様の子細があったか」と問訊させている。
山門は「曽て存知せず」とのことで、それであれば悪徒の所行が上意を終て罪に及ぶであろうと奉行方から答申があった。
その上、将軍義政も御教書を下して法華宗破却の一件は無事落ち着きを見せた。
日住は洛中法華堂が無事であったのは、京極持清の尽力によるものであると認めている。
この前代未聞の事件に当って京都法華宗の諸寺の和合は堅いものがあり、日住は一味同心の談合を結ぶことを提案し、翌寛正七年二月一六日、聖人後降誕の佳き日をトし、一味和合の盟約を結んだのである。
これを「寛正の盟約」という。
このように、日住は教団史的にも重要な働きがあったといえる。
また教学史的に見るとき、日住は中山系の青蓮院日中に宗学を学び、正行日源と同門であった日住は『法華玄義』あるいは日蓮聖人の御書を講義しているが、その門に『御書鈔』で著名な弘経寺日健、立本寺日禘、妙顕寺日能を始め妙覚寺日享、玉昌院日性らがあった。
また行学院日朝も日住の門にあったことが伝えられる。
つまり日住は、正行日源と共に、室町時代中期の京都一致派教学の代表者であり、その門から多くの学僧が輩出したのであった。
《宮崎英修『続・日蓮宗の人びと』、『日本仏教人名辞典』「日住」の項》
(北川前肇)