因果下種論
因果下種論
いんがげしゅろん
日蓮聖人滅後の教学史において論議された下種に関する問題で、本因妙下種、本果妙下種のいずれを正意とするかということ。
望月歓厚『日蓮宗学説史』(一〇頁以下)によれば、教学史上の問題を宗教と宗旨の二大問題に分類し、宗教の問題を権実論、本迹論に配し、宗旨には三秘総論、本尊論、題目論、戒壇論、成仏論等があって、この因果下種論は成仏論の範疇に配分している。
つまり下種論は、法華経に内含せる仏種が末代の凡夫にいかに下ろされるかということであり、凡夫にとってはその仏種をいかに受持するかということである。
その仏種の体をどのように解釈するかが問題となり、本因妙を体と為す下種、本果妙と為す下種の論議は、ともに末代凡夫が法華経信仰によっていかに成仏を得るかという宗教的安心の問題にかかわっている。
さて、聖人滅後の教学を本因妙下種、本果妙下種の二大妙論の立場で分類するとき、その系列における各門流は、本因妙系に日興門流、日陣門流、日隆門流等があり、本果妙系には要法寺系、一致派、日什門流、日真門流等がある(望月歓厚『日蓮教学の研究』三六六頁)。
この二妙論の論争の要点をまとめてみると次のようになる。
この因果下種論は、法華の教相たる「化道の始終不始終の相」『(『法華玄義』一)を重視する天台教学の重要な教義学的概念で、下種益、調熟益、解脱益の三益論に属するものである。
そして、この二妙論の興起は聖人の遺文は別として、『法華文句』一の本因妙下種と、『文句記』一の本因果妙下種の相違を契機として論争がみられるのである。
第一にこの三益論の見方から各門流に大別してみると、相待三益論と超越三益論の二種がある。
相待の三益論とは、種・熟・脱の三益を繰返し、下種の主体たる能化とそれを受ける所化とは常に隔絶・相待するという立場である。
つまり、この三益論は時・依師・法体・行法を共に隔歴次第してこれを立て、かりに仏祖一体を論じ、能化の種脱は成立しても、所化においては利益の能化・所化は隔絶しているというのである。
つまり能化・所化を一体とする成仏の志向ではなく能化の化道があっても所化はあくまでも能化と隔絶しているというものである。
これに対し超越三益論は、日興門流のように種熟脱の三益の時を超えて久遠元初を求める。
その久遠元初は時間概念を超越した理体的本覚であって、理体的未分の法体を取って本因妙下種の体とする。
そして本因果具足の下種体に立脚して、種脱の相待を超えて下種の当位を脱益とするもので、そこには三益論を超越した三益論が見られる。
次に成仏論から見るとき、三益論と関連して、一には妙覚成道を脱益とする成仏観があり、二には名字の信行を正意として、下種即脱益を主張する成仏観とがある。
そして種・熟・脱の繰返しの三益観では、本因下種を体とする名字即凡夫の信行を説いても、下種即脱益という論理構造を有しないために、下種の凡夫の成道、即ち妙覚の成道は、おのずから未来を志向し、そこに成仏の相を想定することになるのである。
この立場にあって信行成仏に徹する日什門流は順次生成仏を正意とし、即身成仏のイメージは希薄となる。
しかし名字信行の成仏は未来妙覚でなく、当位信行の重に成仏を立てるものである。
第三に仏身観の面から見ると、報身客体観と応身実体観に分けることができる。
報身客体観は、久遠の始めに妙法を証得せられた一仏が久遠劫来実在されて、ある時は本果仏と現れ、ある時は本因仏、または菩薩と現れ種熟脱をするという考え方である。
応身実体観は伽耶成道の仏は、人間として久遠の妙法を証得して完成された本仏となられたのであって、この仏の実体が三世常恒の本仏であるとする。
つまり前者は時間的なはじめに一仏をもとめるか、あるいは時間を超越して即時的に一仏を発見しようとするものであり、後者は一仏の存在に撤し、今時に立脚して一切を包含しようとする立場である。
第四に宗祖日蓮聖人をどのように位置づけるかの問題であって、釈尊と聖人を一体と見る仏祖一体論、釈尊と聖人を別体に見る別体論とがある。
一体の場合、おおむね三益論の繰返しを主張する中に見られる。
即ち本因下種の日蓮聖人、本果成道の釈尊という見方である。
別体論の場合には、大石寺教学で主張する名字実仏本因下種の日蓮本仏論と、脱益の教主釈尊の対立を説くものであって、これは顕著なものである。
広蔵日辰、一妙日導らの場合は釈尊・日蓮聖人師弟説をもって別体を論ずる。
しかし、日蓮本仏論では、聖人は信仰の対象であって、救済主・本尊であるが、師弟論においては聖人は教導師であっても救主という位置づけではない。
信仰・安心の規範とはなっても、信仰の対象ではないのである。
次に第五の問題として、下種の法体たる妙法五字(本法)をどのように規定するかである。
それには理法種子論と乗法下種論との対立がある。
因果下種、本果下種は共に本仏の果法を下種の体とするから理法の種子ではない。
しかし、ややもすれば本果下種は久遠最初を越えて真如の理法をその体とするから、繰返しの尽きるところに理法種子論に堕する危険性がある。
本因下種も同様に時間概念を超越した当初の本因妙時の真如の理法を体とすることから理法種子論に傾斜する。
これに対し、因果論は繰返しを伴わないで、釈尊一仏に徹し得る点において、本因行を無限に延長して乗法下種を強調することができる。
第六に宗教的な「時」に関する解釈の問題で元初思想と久遠思想の対立がある。
即ち種熟脱の三益を時間的に考えるものと、超時間的に考えるものとである。
時を元初、未分の本時となして、今日を永遠絶対とみなして、超時間の時を元初とする日興門流の考え方と、日隆門流のように久遠初頭の修成の初め、本因妙を押えて本時とする考え方である。
前者は時間を超えて未分を主張するのであるから、本仏の三世化益の問題が等閑視されて、真如の理と同体に堕する傾向がある。
しかし本仏に内在する時間として考えるならば、信行の当初は常に永遠絶対の現在として理解される。
後者は末法は第二の久遠の初めという考え方で有限的にならざるを得ない。
そこで本時即今時、今時即本時という考え方に立脚し、物理的時間概念ではなく、宗教的、永遠の今の考え方に妥当性が生じるのである。
以上のように因果下種論は、単に法体論としての本因妙下種、本果妙下種という問題にとどまらず、三益論、本師、行法・時間(永遠)等の問題と深くかかわっているのである。
これらの教学史上の諸論を検討しながら、更に日蓮聖人の信仰の世界を、末代凡夫のわれらの宗教的安心の世界を考えて行かねばならない。
《望月歓厚「本因果妙論の考察」『日蓮教学の研究』》
(北川前肇)