光長寺(静岡県沼津市)
光長寺(静岡県沼津市)
こうちょうじ
静岡県沼津市に所在。
徳永山と号す。
法華宗四大本山の一つ。
日蓮聖人を開祖、日春、日法を同時二祖として、建治二年(一二七六)、草堂建立年代をもって開創とする。
当山は文永年中まで天台宗の寺で、寺主は空存であった。
日法は日蓮聖人より甲駿地方の伝道を命ぜられて、この地に赴いた。
その時、空存は深くその教説にうたれ、天台宗を捨て日蓮宗に帰依した。
空存は日法の弟子にと願ったが、日法の勧めで聖人の門に入り、日春と名を賜った。
これより両師は異体同心して、この地を本拠地に定め布教に専念した。
そして建治二年に精舎を建立し、岡宮の地に法華の法灯が点った。
初めて本堂が建立されたのは延慶四年(一三一一)二月一五日で、日春が願主となって建立した。
また同年中には日法の弟子により塔頭支院や末寺が開かれ、嘉暦二年(一三二七)には修理が行われた。
三世日景の代に至って仏殿の大修理や諸堂宇を造営して、伽藍が出現した。
一方、創立以来、次第に信徒も増え近隣の帰依を得るようになった。
九世日浄の代には今川氏元より寺領が寄進され、天正一九年(一五九一)には徳川家康から寺領の寄進を受けた。
また家康が鷹狩の途中に止宿したおり、家康より網代乗輿を賜った。
このように時の守護職からも外護を受け、上下の尊崇も厚くなった。
またこの間に歴世やその弟子により、各所に寺(末寺)を建立して教線を広めて行った。
しかし慶長年中火厄により全山烏有となる。
一一世日嘉は本堂再建を発願し、日竟・日運に至り本堂方丈が再建立された。
次いで日周の時に本堂東西北の山藪を開いて番神の社頭、同拝殿、御影堂、大黒堂、鐘楼堂、納骨堂、総門、出仕門、毘沙門堂、内墓、宗祖御廟所、歴代墓などを造営した。
方丈北の山藪を開いて庭園も作られた。
日周は諸堂宇を造営するだけでなく、光長寺法度を制定して本末の秩序を正し、本寺としての面目を整えた。
この浄業達成に日真、日伝の法勲は顕著なものであった。
日真は二王尊、本堂本尊一二体、方丈建立時には米一〇〇俵を寄進した。
日伝は黄金五〇両、梵鐘を鋳造寄進し、浄業推進の原動力となった。
その法功により両師は歴世に叙された。
しかしこれらの諸伽藍も不幸にして明治二三年春焼失した。
わずかに本堂、宝蔵、鐘楼堂、山門がその難を免れた。
再興は直ちに着手され、日光は庫裡、日啓は祖師堂、日諒は回廊、日舜は宝蔵等を再建し、日浄は梵鐘を再鋳した。
ここに当山は旧態以上の偉観を呈した。
当山の幾多の先師の中で、門流中興日朝・日像の業績は大きい。
日朝は九歳の時、岡宮に入り四世日景に師事し、東之坊に住した。
幼少の頃より英俊のほまれ高く、後に光長寺檀林の学頭となって、七〇有余人の門人を教育した。
自らも各所に寺を建立し、その弟子も各地に伝道して教線は一躍拡張された。
この興隆の源となった檀林はその後、一時絶えたが、文政二年(一八一九)に日宏は子弟育成のため、これを整備再興して岡宮檀林とした。
これも明治維新の廃仏毀釈により一時荒廃した。
しかし日光は檀林を宗校として再興した。
日勤の時代には法華宗立東校として僧侶育成はもとより、在俗者の教育もした。
その後、大正三年(一九一四)にはこの東校は尼崎西校と合併して本門法華宗学林となった。
また昭和初期において、六一世日要の布教と子弟育成により、門末の伸張が計られたのも見逃す事ができない。
当山の宗宝物は歴代先師の護法愛山の護念により、幾度かの火厄に遭遇しながらも多くの宝物を守り伝えている。
日蓮聖人直筆本尊五幅(最大幅の二八紙大曼荼羅、日春・日法授与の本尊、文永・弘安の本尊)を始め、聖人尊像一体(刻日法)、聖人御舎利・御真骨、聖人・六老・中老の真蹟等の一二〇余点に及ぶ資料文献を格護している。
中でも日法の筆授である聖人の講義記録の『連々御聞書』『御法門御聞書』は直接、聖人の教えを知る事ができるだけでなく、鎌倉時代の言葉やその使い方を知る貴重な文献である。
近年、その書簡文の裏書きが発見され、日蓮聖人研究の新分野を開く貴重な文献である事が分かった。
その他『下山抄』『山門申状』(共に写本、唯一の完本)等の日法写本、また日春筆の『宝物集』は原本のない今日、駿河光長寺本として最古の写本であり、国文学上貴重な資料である。
日春は他に『和漢朗詠集』、『日本法華霊験記』等の写本がある。
庶民信仰と芸術と融合した文化史上貴重な作品の五色繍字法華経や、日春・日法・日隆・日朝・日像らの本尊、聖人の御書断簡及び消息、日昭・日興・日弁・日像らの真筆、また『紺紙金泥妙法蓮華経』『一字三礼妙法蓮華経』等の宝物が格護されている。