物語・草子
物語・草子
ものがたり・そうし
(一)日蓮聖人=聖人の宗教は当時の社会不安の因を邪教の蔓延にあると認定するところから出発した。
そこで聖人の目は邪教にゆがめられた過去および現在の歴史社会事象を直視するのであるが、中でも注目されたのは「白法隠没、闘諍堅固」と『大集経』に予言された末法の濁世を眼前に見せる三大史実であった。
その第一は、宗教界の最高権威である天台座主明雲が殺され、国家の主君たる安徳天皇が西海の海底に追い落された治承・寿永の乱であり、第二は幕府北条氏のカによって朝廷軍が壊滅し、後鳥羽・土御門・順徳三上皇がそれぞれ隠岐・土佐・佐渡に配流された承久の乱、そして第三は聖人当時の「天変・地夭・飢饉・疫癘・遍く天下に満ち、広く地上に迸る。
牛馬巷に斃れ、骸骨路に充」(『立正安国論』)ちるといった社会の混乱と蒙古来襲の危機をはらんだ対外情勢であった。
右の第一・第二事件の展開相は『平家物語』『承久記』などによって伝えられており、聖人は進んでそれらに接し学んだ。
また第三事件は、京都を始めとする各地の知己を通し、あるいは「武家の日記」(下山御消息)「公家・諸家・叡山等の日記」(報恩抄)の類を渉猟して情報を得た。
こうして聖人は自己の宗教設立の根拠を確認すると共に、先行文献の記述を多く引用して宣教に説得性を持たせたのである。
ただし現存軍記物語と遺文中の関係記述とを比較してみると微妙なところに相違が見られ、聖人の接した軍記物語が現存諸本と直結する系類のものでなかったと推定される点は注意を要する。
軍記物語が史書としてしての役割を果したばかりでなく聖人の人格形成に大きな影響力を及ぼしたことは特記に値する。
中世変革の気みなぎる関東で生れ育ち、武士層と接することの多かった聖人は、軍記物語に語られた忠烈豪勇な関東武士たちの生きざまに共感を持ち「命をば兵衛佐殿(源頼朝)にたてまつり、名を後代に留めむ」(『源平盛衰記』)という武士たちと同じく「命は法華経にたてまつる。
名をば後代に留むべし」(『開目抄』)との信条のもとに「大白牛車に打乗って権門をかっぱと破り、かしこへおしかけ、ここへおしよせ、念仏・真言・禅・律等の八宗十宗の敵人をせむる」(『如説修行抄』)という熾烈な法戦を展開したのであったが、その精神と行動とには軍記物語の投影が見られる。
反面、聖人は優雅な王朝物語類には余り関心を持たなかったようである。
王朝風物語をにぎわわした「漢の李夫人・楊貴妃・王昭君・小野小町・和泉式部」(『女人往生鈔』)らも遺文中に名を連ねるが、これは美女の例として記されているにすぎず、「淫女・破戒の法師」(『報恩抄』)と書かれた和泉式部・能因法師の場合は詠歌によって雨を降らしたという故事を語るために引例されているだけであって、文学としての物語作品に深くかかわりあっているわけではない。
説話文学と聖人との関係は極めて密接である。
聖人は佐渡から「外典書、貞観政要、すべて外典の物語、八宗の相伝等、此等がなくしては消息もかゝれ候はぬに、かまへてかまへて給候べし」(『佐度御書』)といって伝道資料の送付を要求しているが、ここに記された「外典の物語」は(軍記物語をも含めて)日蓮聖人が文書を執筆するに当って多く例証としている和漢の故事説話類の資料となったものであろう。
高木豊氏の調査によると、聖人の遺文に引用されている説話と、前代および同時代の説話集とに共通するものは、仏教関係で『私聚百因縁集』一七、『今昔物語集』一三、『宝物集』一一、『三宝絵詞』九、『沙石集』五、『打聞集』四、『十訓抄』二、『三国伝記』二、『古今著聞集』一、『日本霊異記』一あり、また震旦の故事説話で『今昔物語集』一五、『十訓抄』一四、『宝物集』一〇、『唐物語』八、『俊秘抄』四、『蒙求和歌』二、『源平盛衰記』二、『将門記』一、『続古事談』一、『平家物語』一、『沙石集』一、『撰集抄』一、『三国伝記』一あるという。
右の諸書と聖人の遺文とが共通話を持つに至った原因は、
(1)聖人が諸書を直接原典とした。
(2)聖人と諸書とが同一原典から同説話を導入した。
(3)聖人と諸書とが、原典から流伝して別個に存在していた同説話を導入した。
(4)その他、の場が想定されるが、ともあれ聖人が非常に多くの説話を保有していて説法の庭で縦横に活用していた状況は把握されよう。
康永三年(一三四四)に下総中山法華経寺三祖日祐が記した『本尊聖教録』は聖人の遺文や所持した仏像・仏具・書籍・什器等の目録であるが、その第十八「説法等」の項には平家要所少々(一帖)、第二十一「自他章疏」の項には證道歌(一帖)・西域記(一部十二帖)、第二十二「因縁等」の項には注好選(一帖)・発心集(一帖)・日本法華験記(上中下三帖)・説草等(五結)・雑雑集(一帖)・物語集(一帖)、第三十「雑雑」の項には天竺物語(一帖)・三宝感応要録(上中下三帖)、第三十四「外典」の項には蒙求(一巻)・注朗詠(上下二帖)・三教指帰(上中二帖)その他の名が見える。
これらのすべてが、聖人保持のものではなかったとしても、遺文を通して知りうる広範な文学的教養の源泉がいかに豊かなものであったかが知られる。
『本尊聖教録』に記された第三十五箱の目録は「歌雙紙等」として源氏目録(一帖)・名所寄合抄(一帖)歌寄合(一帖)・連歌寄合(一帖)・暁月御房百首・初学抄(上中下三帖)・八雲抄(一帖)・新古今(上下二帖)・伊勢物語事(四帖)・俊瀬口伝(一帖連歌一帖)・千句連歌抽連歌・和歌灌頂作法(一帖)・古今集注(三帖)・連歌用意抄(一帖)・袖中抄(十六帖)・歌字事(一帖)・連歌式目(一帖)などを連ねているが、ここには連歌式目や暁月御房百首のように聖人滅後に成ったと思われる作品の名が見えるばかりでなく、聖人の和歌に対する関心が非常に薄かったことや、和歌的抒情をたたえた美文調の遺文に後代の偽作と認められるものが多いことなどを思えば、総対的に疑義のもたれる書目であるといえる。
(二)聖人滅後=聖人が直接的に影響を受けたと推定される仏教説話集の一つに平康頼作の『宝物集』(一一八〇頃成る)があるが、それは現存する一巻本のような簡素な古態本であったと思われる。
『宝物集』には後代になって和歌を大幅に付加し抒情性を豊かにした増補本が数種作られた。
書写年代の明らかな増補本で最も古いのは、弘安一〇年(一二八七)二月一日の奥付をもつ沼津光長寺日春の写本であるが、その他の現存本も、鎌倉期末の書写と思われる京都の本能寺本、身延山第一二世日意自筆の上巻(一四九一成る)と日意本を転写した下巻一組の久遠寺本、深草元政書写の瑞光寺本(一六六五成る)、それに鎌倉の妙本寺本など、殆どが日蓮教団内で書写され伝承されている。
この事実は日蓮の最晩年か没後間もなくの頃から、教団内に和歌をよくして『宝物集』を重んじ、それを用いての布教活動を活発に行う人々が現れたことを示している。
そこで思い当るのは、前項の末尾に指摘したところの、和歌的抒情性に富んだ遺文に真偽問題の残るものが多いことや『本尊聖教録』の「歌雙紙等」の書目に疑義があることなどであって、それら疑問の対象となることどもは、聖人滅後の増補系『宝物集』をもてはやすような風潮の中で形成された可能性が強い。
中世末から近世にかけての日蓮教団の物語・草子類とのかかわり方は大別して二つある。
その第一は、教義宣揚のために物語・草子を作製するという教団主体型であって、京都妙覚寺の住持実成院日典(一五二八-九二)作とされる『妙正物語』や、日心という僧の作った『糺(ただす)物語』などの場合がそれに当る(各項参照)。
そして第二には物語・草子の題材・素材として日蓮教団が用いられるという物語・草子主体型があげられる。
この場合最も多く取上げられたのは、日蓮門徒の強い信仰とそれに基づく一途な行動であったが、それが度を過ごして笑いの対象とされる場合もあった。
その他特殊な例として京都要法寺の本地院に住んだ学僧世雄房円智日性が中心となって行った出版事業がある。
要法寺版といわれる銅活字版の出版で、慶長五年の『法華経伝記』、同一〇年の『沙石集』その他多くの書物を世に出した。
《今成元昭『平家物語流伝考』、高木豊『日蓮とその門弟』、石川教張『日蓮聖人のものがたり世界』印度・中国・日本篇、五味文彦『書物の中世史』、中村史『日本霊異記と唱導』三弥井書店、廣田哲通『中世仏教説話の研究』、渡辺守順『説話文学の叡山仏教』和泉書院》
(今成元昭)