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軍記物語

ぐんきものがたり #4909

軍記物語

ぐんきものがたり

『保元物語』『平治物語』『平家物語』『承久記』等一連の合戦物語。
法然・親鸞・道元を始めとする同時代の宗教的指導者たちが誰一人として軍記物語への関心を示していないのに反して、日蓮聖人だけがそれと親しみ、思想・行動上に少なからぬ影響を受けていることは注目に値する。
日蓮聖人宗教の特色の一つは歴史の現実との関わりを重視するところにある。
従って、『平家物語』が素材とした治承・寿永の乱、『承久記』が素材とした承久の乱の結末に対する関心は殊に強かった。 それは「いかにとして彼々の四王(寿永の安徳皇と承久の後鳥羽・土御門・順徳三上皇)は王位を追い落され、を奪はるるのみならず、命を海にすて、身を島々に入れ給ひけるやらむ」(『神御書』定八八三頁)という疑問から発する。
そして「安徳皇の御宇には明雲座主御師となり(略)三千人の大衆五壇の大法を行ひ、(略)又承久の合戦の御時は天台座主慈円・仁和寺御室・三井寺の高僧等を相催し日本国にわたれる所の大法秘法を尽さずという事なし」(同前書・定八八三頁)という状況であったにも関わらず宮方が惨敗したのはその祈りに用いた真言法そのものが邪法であったからであるとの結論に達し、ここに聖人独自の宗教が始動することになるのである。
このように日蓮聖人にとって軍記物語はまず歴史書であった。
次に軍記物語は生き方の指南書として日蓮聖人に作用していることが注目される。 「仏法は摂受・折伏によるべし。 譬へば世の文武二道の如し」(『佐渡御書』定六一一頁)として武道に相当するところの折伏行を選んだ日蓮聖人は「日蓮は日本国東夷東条安房国海辺の旃陀羅が子也」(『佐渡御勘気鈔』定五二頁)と武士の名乗りに似た自己紹介をしながら「世間の法にも、賢人は二君に仕へず、貞女は両夫に嫁がず」(『下山御消息』定一三一五頁)とあるに従って「命は法華経にたてまつる。 名をば後代に留」(『開目抄』定五八九頁)めるのだとしているが、それらは軍記物語に散見する類型的言辞で、当の武士団の思想・行動の軌跡上のものである。
それは例えば退転の危にさらされた檀越に対する「此こそ宇治川を渡せし所よ。 是こそ勢多を渡せし所よ。 名を揚るか、名をくだすか也」(『弥三郎殿御返』定一三七〇頁)という叱咤激励の弁ともなり、正法弘宣の庭に死ぬことを誇りとして「うれしき事は武士の習ひ、君の御為に宇治勢多を渡し前をかけなんどしてありし人々、たとひ身は死すれども名を後代に挙げ候ぞかし」(『妙法比丘尼御返事』定一五六五頁)という教誡の辞ともなるのであるが、これらが『平家物語』や『承久記』に見られるところの、佐々木高綱(寿永の乱)その甥信綱(承久の乱)らの宇治川先陣争い談をふまえての発言であることはいうまでもない。
《今成元昭『文学の世界』》

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