平家物語
平家物語
へいけものがたり
作者不詳。
一三世紀後期の成立か。
日蓮聖人の思想・行動には軍記物語に見られる武士たちのそれに類するものがあり、また遺文中に軍記物語の文章と酷似するものが多く見受けられる。
そこで日蓮聖人の享受した軍記物語とは何であったのかという問題が俎上にのぼることになる。
大正時代から関心の持たれ始めたこの問題に学界はまず『平家物語』であるという断定をくだした。
日蓮聖人の遺文中には『平家物語』に扱われている歴史事件や引用されている和漢の故事・説話をふまえたものが多く認められるし、共通する辞句までが少なからず見出されるというのがその理由である。
具体的にいえば、流謫地佐渡に四条金吾からの使者が訪れた時、「両三日はうつつともおぼえず。彼の法勝寺の修行が、いはを(硫黄)が島にてとしごろつかひける童にあひたりし心地也」(『四条金吾殿御返事』定六六四頁)と記す書状の一節が『平家物語』で流伝した俊寛・有王邂逅談(治承元年=一一七七=に鹿谷事件で捕えられ、硫黄島に流された俊寛を有王が訪れる物語)をふまえたものであり、また『富城入道殿御返事』(定一八八七頁)に「我が朝に代始て人王八十余代の間、大山の皇子・大石の小丸を始めとして二十余人王法に敵をなし奉る一人として素懐を遂ぐる者なし。皆頸を獄門に懸けられ、骸を山野に曝す」と朝敵の末路を述べるくだりは『平家物語』巻五〈朝敵揃〉の「我朝に朝敵のはじめを尋れば(中略)大石山丸・大山王子(中略)悪左府・悪衛門督にいたるまで、すべて二十余人、されども一人として素懐をとぐる者なし。かばねを山野にさらし、かうべを獄門にかけらる」の一節と趣向を同じくするばかりか語句まで一致するものがある、というような例が多くあるからである。
しかし日蓮聖人が『平家物語』を享受したと断定するには、右のような資料だけでは不十分である。
なぜなら『平家物語』は古くから伝わっていた故事・説話類や、治承・寿永の乱の最中から既に語り始められて逐次増幅された軍談や陣中哀話などを多彩に織りなして成った作品であるから『平家物語』と日蓮聖人遺文との間に共通記事が存在していたとしても、それは必ずしも日蓮聖人が『平家物語』によって記したことにはならないのであって『平家物語』形成の資となったところの先行史料・説話類から得た知識に基づくものであるという可能性がおおいにあるからである。
そこで両書の関係を子細に検討すると日蓮聖人遺文の『平家物語』関係記事が『平家物語』とは直接的関係のないものであることが判明する。
それは例えば日蓮聖人が日本の神社の数を『延喜式』によって「三千一百三十二社」(『秋元御書』定一七三一頁・『曽谷二郎入道殿御書』定一六六三頁)としているところに見られる。
『延喜式』から約三百年も後の日蓮聖人の時代には神社数も大幅に増加していたのであるが、日蓮聖人は『平家物語』の伝える「三千七百五十余社」という知識を持つには至っていなかったのである。
このような、もし日蓮聖人が『平家物語』を享受していたとするならば記すはずがないという記事は、天台座主明雲や東大寺を焼亡した平重衡の殺され方、あるいは平家の嫡孫維盛や六代の扱い方その他に指摘できるのである。
『平家物語』そのものを享受していなかったとしても、日蓮聖人が『平家物語』と極めて近い関係にある作品(それらの多くは当時『平家』と呼ばれていたと思われるので、以下この名を用いる)に親しんでいたことは事実である。
これは法然・親鸞・道元を始めとする当代の宗教的指導者たちが誰一人として軍記物語に強い関心を示していないという状況の中にあって非常に特異なものであるといえる。
それは中世変革を推し進める気概のみなぎった関東に生れ育った日蓮聖人の資質によるものであったろう。
日蓮聖人の『平家』とのかかわり方は大別して三種ある。
その第一は『平家』を説法の素材として用いたことである。
『平家』の扱った平家一門滅亡の歴史を日蓮聖人は仏法を破滅させた罪の報いによるものであると説くのである(『盂蘭盆御書』定一七七四-五頁)。
第二に『平家』を宗教の価値を測定する資料として用いたことがあげられる。
日蓮聖人は源氏の勝利・平家の敗北を、法華経を受持した源頼朝と、密教の祈祷に身をゆだねた平家一門との勝敗と見て法華経の優位性を主張するのである(『本尊問答鈔』定一五八五頁など)。
第三に指摘できるのは、日蓮聖人が『平家』を自己の宗教的生活信条の中に取込んだことである。
日蓮聖人は正法に殉ずる旺勢なあり方を「法華経の兵法」と称して「なにの兵法よりも、法華経の兵法を用ひ給ふべし」(『四条金吾殿御返事』定一六八五頁)と門弟に教えたが「命な惜しみそ、名を惜しめ」(『保元物語』)「命をば兵衛佐殿(源頼朝)にたてまつり、名を後代に留めむ」(『源平盛衰記』)とした関東武士の志向そのままに「命は法華経にたてまつる。名をば後代に留むべし」(『開目抄』定五八九頁)といって不惜身命の法戦に挑んだのであった。
日蓮聖人の雄々しい人間的魅力は、根源的には法華経への絶対的な信仰から湧き出るものであることはいうまでもないが、更に変革の気のみなぎる関東の風土にはぐくまれた強靱な魂が『平家』に典型化されている武人像などによって触発され、磨きをかけられて発現したものということができるのである。
《今成元昭『平家物語流伝考』、『遺文辞典』歴史篇「平家」の項、『国史大辞典』一二巻「平家物語」の項》