堅法華
堅法華
かたほっけ
「情強(じようごわ)法華」とも言い、強情な信心を持った法華信者、ひいては、その気質のことを指す。これは、「或は罵られ、打たれ、或は疵をかうほり、或は流罪二度、死罪に一度定められぬ。其外の大難数を知らず」(『妙密上人御消息』定一一六八頁)というほどの迫害にもめげず熾烈な弘教活動をした、日蓮聖人自身の気概と行動性が宗徒たちに受継がれて、この門流の一つの特色となったものと言える。
こうした堅法華の様相は、高い次元での宗論や殉教の歴史とは別に、大衆的文学の中に生き生きと描き出されている。
例えば、「ほっけ衆、門に衣をほし置きて、のり(法・糊)のこはさよ、じゃう(情・錠)のこはさよ」(「犬筑波集」)と狂歌に詠われ、「じゃうごはになるな鶯ほう法華経」(「犬子集」)と俳諧に詠まれ、また浄瑠璃には念仏衆の色男に改宗を勧める遊女、(春告鳥)が、そして歌舞伎には「中山の剣難除に、駒木の腹帯、柴又の一粒御符」などのお守りばかりを持っている「親譲りの片法華」(「小袖曽我薊色縫」)が登場したりするし、仮名草子の小話の世界では京都大徳寺の国師号を持つ禅の高僧に対して法華衆の功徳を説教する向う見ずな男(「きのふはけふの物語」)や、寺へあずけたのに読経もしない子を親が叱ると「(この子の強情さは)よき法花宗の下地ぢゃ跡を譲らふぞ」とほめる住持(「掲書」)が話題となったりするのである。
特に、堅法華の人と念仏衆との衝突は、しばしば大衆的文学の庭をにぎわせる格好な材料となった。それは、法華衆の最も手強い相手が念仏の門徒であり、彼らは上田秋成の言葉を借りていえば「一向一心にて本寺のために命をすてて身をすててとする」(「膽大小心録」)という、文字通り一向念仏の衆であったので、法華衆と対立することが多かったからである。
例えば式亭三馬の『浮世風呂』には「一天四海皆帰妙法、南無高祖日蓮大菩薩。南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経」「願はくは此功徳を以て普く一切の衆生に及ぼさん。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」とそれぞれの唱え文句をいいながら入浴する両衆の人の生態が描かれているし、両替屋へ借金をしに行きながらその店の主人が念仏衆であったために口論をしただけで帰って来た法華衆の話もある(「浮世親仁形気」)。正面きって問答をする形をとっている作品には長野善光寺詣で帰りの念仏衆と甲州身延参りから戻る法華衆とが出会って問答道中を続ける狂言『宗論』や、念仏衆の夫と法華衆の妻とが勝劣を諍論する仮名草子『夫婦宗論物語』などがあるが、その形式だけを借りて女色派(女道門=浄土門)と男色派(衆道門=聖道門・法華衆)とが極意を披露しあう『野傾禁談義』や『傾城禁短気』のような作品も生れた(これらの書名は『禁断日蓮義』に擬したものである)。
なお、堅法華といわれる日蓮宗徒の中でも特に強固であったのは勝劣派といわれる一派である。日蓮教団では聖人の没後間もないころから法華経の解釈をめぐって、一致派と勝劣派の二流が分立していたが、その対立は室町末からことに激化した。そのような状況を反映して次のような笑話も作られている。
伊勢の桑名で一致派と勝劣派の者が論争しているうちにつかみ合いの喧嘩となり、勝劣派が一致派の急所をしめつけた。そこで一首、「法門のその勝劣はしらねどもきんをしむるはいっちめいわく」(『醒睡笑』類話が『きのふはけふの物語』にある)。この話で勝劣派の方に強烈な行為をさせているのは、この派の堅法華ぶりがきわだっていたという事実をふまえた構想によるのであって、西沢一風の浮世草子『新色五巻書』にも「日蓮宗しかも脇劣派にして堅きこと石の如く、迹門は山の端に入る月に譬へ、余宗は雨夜の星の如しと、我が寺の仏尊く、勝手づくばかり」というような文句が見える。