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日什(玄妙阿闍梨)

にちじゅう #2424

日什(玄妙阿闍梨)

にちじゅう

(一三一四-九二)
顕本法華宗の開祖で、正和三年四月二八日に、会津黒川の石塚氏一族に生れる。
元弘二年(一三三二)に比叡山に登り、横川上智院の慈遍に師事して勉学につとめ、玄妙能化と称して学に通暁した。
日什は叡山に滞在した頃、富士門流の日印と交わったことがあったが、やがて葦名真盛の招請によって会津羽黒山東光寺に住し、天台宗の一指導者として多くの門弟を育てた。
ところが門下の徒が携えていた『開目抄』と『如説修行抄』を読んで深く感動し、日蓮宗への改宗を意図した。
始めは富士門徒に加わろうと思ったが、学匠を求めて真弘法寺に帰入した。
に康暦元年(一三七九)三月二三日で日什六六歳であった。
このの帰伏状が真弘法寺に伝わっている。
門流に入った日什は、その学徳を高く評価され、貫首日宗の請によって学頭となり、弟子の日満を始めとする中山・真間門流育にあたった。
この、会津から六人の優れた弟子がつき従い、師と共に日蓮宗に改宗した。
下総における日什の活動は目覚ましく、そのすぐれた力量を存分に発揮し、千葉氏を始めとする下総各地の在地領主たちを化してまわった。
この中で皇や将軍などの権力者に正しい仏法たる法華経の真意を披瀝することが第一と観念するようになった。
そこで中山法華経寺の貫首日尊を始め、信者たちの寄進を得、貫首の代官として第一回の上洛をとげる。
それは日蓮聖人の百回忌の年にあたる永徳元年(一三八一)のことで、六条門室町の王寺屋通妙のを宿として、奏問を企てた。
六月一八日には鷹司中将冬を通じて二条関白師嗣に法義を内奏し、六月二一日には管領の斯波義将に謁している。
こうして所期の目的を遂げた日什は二位権少僧都の宣旨を得、身延山に登山した後に真へ帰着している。
第二回目の上洛はその翌年のことで鎌倉埋橋に本興寺を建立して弘通の根拠とし、関東管領足利氏満を諫暁する。
更に京都に上って師嗣に奏し、かれを深く感歎させている。
ところが、その翌年に第三回の上洛を企てていた日什は中山の貫首日尊とのに懸隔を生じるようになった。
とくに日什が上洛の費用として集めた三六貫文をとりあげるに及んで両者の対立は決定的となり、第三回目の諫奏の折には「関東鎌倉埋橋本興寺住二位僧都日什」と名乗っている。
永徳三年と四年は日什にとってまことに重大な転であった。
永徳三年に第三回目の諫奏を期して上洛した日什は、王寺屋通妙の外護を得て六条門室町の西頬に小庵を創建して、ここを京都弘通の本拠とした。
更に遠江に下って府中に玄妙寺を建立して「此の門徒本寺」と定め、翌年には同吉美に妙立寺を建立している。
また遠江(静岡県)の守護をつとめる今川越後守を諫暁するなど、この地の伝道に力を注いだ。
この頃日什に帰依した信者として、吉美庄に住む小山田・河尻らの一族や、今川臣萩次郎左衛門尉氏誉がある。
かくて遠州の府中を中心とした信者を護得して見附に本寺たる玄妙寺を建立すると、嘉慶二年(一三八八)八月二五日に、中山法華経寺の門流と袂を分って独立した。
ちこの日に「日什門徒等可存知事」という置文を定め「この大曼荼羅所持の寺を本立山玄妙寺と号す也、(略)此寺をもって本寺と定むる処也」と謳っている。
また「大聖人御門弟六門跡、並びに天目等の門流、皆方軌、弘法ともに大聖の化儀に背く所有るによって、同心せざる処也、直に日什は仰せを日蓮大聖人に帰する処也」と言明している。
このように日什は日蓮聖人よりの仏法相承の次第を否定し、日蓮聖人から直接に法水を汲むという自己の立場を言明した。
いわば直授日蓮の論であり、法華経を受けつぐという経巻相承によってこれが具体的に示されている。
さらにこの置文の中で、かつて真間弘法寺に差し出した帰伏状と起請文について、悪知識に従うわけにはいかないといって破棄を宣言した。
これより先至徳二年(一三八五)には、法華本門戒血脈を日仁に授け、〈釈尊―日蓮聖人―日什僧都―日仁〉という、仏法相承関係を明らかにしている。
このようにして日什は中山法流から独立し、一派をなすに至ったのである。
その後の日什は康応元年(一三八九)に五条室町の小庵を改めて妙満寺と称すると共に、ここを京都における弘通の本拠地とした。
その活動の中心となすものは公武への諫奏で、従来の体を踏まえてしばしばこれを行った。
ところが明徳二年(一三九一)の正月と三月の両にわたって敢行した将軍足利義満への庭中は、日什に大きな転を与えることとなる。
ちこのの直訴については内容を諒承されたが、法華一宗のみをたてることは不可能である。
重ねて追訴すべからずと禁止されたので、これより後の諫奏を断念した。
やがて日什はこの年の七月二五日に京都を出発し、遠江・駿河などゆかりの地を経て鎌倉に下り、日蓮聖人の遺跡などを訪ねた。
更に布教活動を続けながら武蔵を経て、一〇月九日に会津の安芸阿闍梨日意の寺に下着している。

このように故郷の会津へ帰着した日什は、やがて病を発し再起を断念すると、団体制を整えるべく最後の努力を傾けた。
ち遠江の玄妙寺・京都の妙満寺・会津の妙法寺の三寺を一寺とし、玄妙寺を得道寺、妙満寺を転法輪寺、妙法寺を入涅槃寺と称することとなった。
しかもこの三寺の中では妙満寺を本寺とするのである。
次いでその翌年の明徳三年正月二〇日には、これらの三寺に宛てて置文を草し、日什と同様に京都の弘通を行い「諸宗は堕獄の根源、法華宗許り成仏たるべき」ことを断乎として主張する人を「真実の弟子」とすると遺言した。
什弟・嫡弟として一人だけを定めておくのではない。
師日什の真意を強く伝道する者こそ、すべてが真実の弟子であるというのである。
日什はこれよりしばらくの後、明徳三年二月二八日、七九歳の波乱に富んだ一生を会津妙法寺に終えた。
日什のこの法系を日什門流、または妙満寺派といい、京都の有力商人たちの帰依を受けて繁栄した。
この団が後の顕本法華宗の祖型となったのである。
因に日什の堂が後に寺院となったのが、現在の妙寺(会津若松市一箕町竹沢)である。
《『日本仏教人名辞典』「日什」の項、『史大辞典』一一巻「日什」の項》
(中尾堯)

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