妙満寺(京都府京都市)
妙満寺(京都府京都市)
みょうまんじ
顕本法華宗の総本山。
京都市左京区に所在。
顕本法華宗の開祖日什(一三一四-九二)が開創した寺院。
京都二十一箇本山の一として繁栄した。
妙満寺の開創は日什が天下の奏聞を志して下総国から上洛した永徳元年(一三八一)に求められる。
この年、六八歳の日什は四月二七日に上洛して、室町六条坊門にある天王寺屋通妙の宅に宿し、天下の奏聞を行った。
翌二年に再び上洛した日什は、天王寺屋通妙から屋敷地を寄進されて、ここに草庵一宇を構えて洛中の布教を展開した。
更に康応元年(一三八九)に、室町の草庵に自ら妙塔山妙満寺と寺号を付け、名実ともに洛中の布教の根拠地として確立した。
日什はやがて奏聞の意が聞きいれられないと悟り、明徳二年(一三九一)七月に京都を出発して故郷の会津に向った。
一〇月に会津に帰着すると葦名氏の外護によって妙法寺を創建し、翌年正月二〇日に遺言を書いて後事を弟子たちに任せた。
「日什跡の事」というのがこれで、文中に「但し、誰にても門徒間の僧衆の中、京都の弘通を致し、諸宗は堕獄の根源、法華宗計り成仏なすべしと堅く申しヌル人を、門徒の僧俗共に崇め供養し給うべく候」といっている。
日什は京都の弘通をもっとも重要に考えているわけで、同じ文言を会津妙法寺、遠州玄妙寺、京都妙満寺の三寺に遣わされ、これを一旨三通の置文と称する。
日什がこのように重視した京都における伝道活動における根拠地は、いうまでもなく妙満寺であったから、これから後の妙満寺の宗門における地位は高かった。
応永一〇年(一四〇三)、日叡は『日什名相本地之口決』を著して、日什が「三寺一寺」を建立した趣旨を示している。
これによれば玄妙寺は得道寺で、妙満寺は転法輪寺、妙法寺は入涅槃寺としている。
この中でも妙満寺を本寺というわけは「転法輪寺と云て、末法相応の霊地」であるからであるという。
この時からすでに妙満寺は一門の中心となる寺院であったことが分る。
日什における身命を賭した積極的な布教活動は、この後も妙満寺の伝統として伝わり、多くの名僧を輩出している。
上総の酒井定隆を教化して、後世にいわゆる七里法華の基を開いた日泰や、慶長法難の中心人物として有名な日経も、妙満寺の門流の中から現れた人物である。
これと同時に妙満寺は日蓮宗二十一箇本山の一として、京都における日蓮宗繁栄の一端を荷っていた。
当時の妙満寺は草創当時とは異り、錦小路・東洞院に位置していた。
ところが天文五年(一五三六)の天文法難によって妙満寺も灰燼に帰し、かつ洛中から追放される憂き目にあった。
やがて天文一六年に帰洛の勅許がなされると、堺に逃れていた妙満寺も京都に復帰することになった。
その位置は綾小路堀川西に移動している。
この地は後まで「妙満寺町」として名称が残っていた。
この後、いつの頃からか寺町二条下町に移り、祖師堂・番神堂を備えた大伽藍を誇っていた。
また寛永一〇年(一六三三)の「寺院本末帳」では、勝劣派に属する妙満寺之帳として立てられ、その本寺として位置づけられている。
また住持は檀林の能化を勤めた僧が、一カ年交替の輪番によって順次に就任している。
また触頭としては品川の妙国寺・本光寺、浅草の慶卯寺が定められていた。
近代になると妙満寺からは名僧が輩出し、特に本多日生の布教活動は目ざましく、有力者の入信者があとを絶たなかった。
妙満寺が洛北の岩倉に移ったのは昭和四〇年のことで、現在はここに顕本法華宗の宗務院が置かれている。
《『国史大辞典』一三巻「妙満寺(京都)」の項》