妙顕寺(京都府京都市)
妙顕寺(京都府京都市)
みょうけんじ
京都市上京区に所在。
具足山と号す。
一般には龍華、顕山および三具足第一、四海唱導の寺などと呼称される。
開山は日像(一二六九-一三四二)で永仁二年(一二九四)の弘教開始をもって創建としている。
日像は日蓮聖人最後の弟子で、帝都開教を委嘱されたという。
永仁二年の布教の創まりと共に教線の拡張に伴い徳治元年(一三〇六)洛北の松ケ崎での天台宗との争いをきっかけに、他宗派との対立が激化した。
翌年に土佐の幡多に追放処分されている。
赦免され京都に帰った後も精力的に折伏伝道を行ったと思われる。
延慶三年(一三一〇)には再び紀州(和歌山県)獅子ケ背に追放され、元亨元年(一三二一)にも備後(広島県)に三度目の追放処分をうけている。
三度にわたる追放処分は、日像の折伏伝道の効果が高く、天台や真言などの既成教団の脅威になっていたことを示唆するものに外ならなく、三度目の追放は僅かに二週間にて赦免になったという。
元亨元年一二月八日には後醍醐天皇の論旨により御溝の傍、今小路(現在の大宮通上長者町安居院)に八丁四方の寺地を下賜されたという。
実質的な妙顕寺の創立である。
建武元年(一三三四)四月一四日には勅願寺にすることの綸旨を下されているように、貴族社会への接近を通じて教線を拡張していったことが知られる。
康永元年(一三四二)に没している。
二世は大覚妙実で大覚大僧正の別称で知られる。
延文三年(一三五八)六月には桂川で祈雨の修法を行い京都市中の水飢饉を救ったという。
このことにより日蓮聖人に大菩薩号、日朗、日像には菩薩号を下賜され、妙顕寺には四海唱導の呼称、妙実には大覚の呼称が与えられたという。
また妙実は後世に後醍醐天皇の皇子あるいは関白近衛経忠卿の子という寺伝が伝えられるように皇室、貴族勢力との接近を通じて急速に教線を伸張していったことが知られ、以後の歴代の出自の多くが貴族出身であることは、このことを明示しよう。
更に妙実は弘教の拠点を御溝の傍から四条櫛笥の地に移している。
かくして当寺が四条坊門内にあることから、妙顕寺を中心に展開する教団勢力を四条門流と呼称している。
大覚の後は朗源が正平一九年(一三六四)に継ぎ、朗源の後は日霽が継いでいるが、その折、跡目をめぐり永和四年(一三七八)に内訌が生じて日実が分派を起し妙覚寺を開創している。
この動きは内訌による独立とはいえ、分派活動を起すほどに成長した四条門流の活発な状態を示すものであった。
この動きは既成の天台や真言教団にとっては脅威に感じられ、遂に嘉慶元年(一三八七)には叡山の襲撃を受け妙顕寺は破却され、日霽らは若狭(福井県)の小浜に逃れているが、明徳四年(一三九三)には、足利義満の斡施により三条坊門堀川の地に妙本寺の寺号をもって再興された。
また旧地には日実によって立本寺が創立されている。
妙顕寺、妙覚寺、立本寺を三具足と呼称する。
この時、日霽は三条実冬卿の子・具覚月明に後を譲っている。
だが応永二〇年(一四一三)から翌年にかけて妙本寺は再び襲撃され破却され、月明は丹波(京都府)および若狭小浜妙興寺に避難している。
また当時の四条門流内には一致義と勝劣義という教学上の論争があり、月明は現世肯定的傾向を帯びる一致義を唱えた。
これに対して月明と同門に当る好学房日純は現状打破的傾向を帯びる勝劣義を唱え、日霽が小浜妙興寺に避難した折に、妙蓮寺を創立して分派し、翌年の応永二二年には、月明門弟の慶林坊日隆が勝劣義を唱え本応寺(後の本能寺)を興し、永亨元年(一四二九)には摂津尼崎に本興寺を創立し分派している。
その外、妙蓮寺、妙教寺、久成寺の分立が知られる。
月明の後は日具であり、彼は康正二年(一四五六)には足利義満の帰依をうけ祈願所となった。
また寛正六年(一四六五)には妙覚寺日住と共に、いわゆる京都市中の法華教団の和融をはかり、盟約六ヵ条を定めている。
文明五年(一四七三)には足利義尚より高倉西洞院に八丁四方の敷地を安堵され移転している。
更に日具は厳島神職家の出自とされ、仏本神迹の理論に明るく明応五年(一四九六)には弟子の日芳と共に、吉田兼倶の法華宗三十番神勧請の論争を行っている。
いわゆる番神問答である。
この論争は吉田兼倶と日具、日芳らの個人的レベルの問答というより、法華宗勢力と吉田神道勢力との接近で、法華宗側からみれば民衆社会に根強い番神信仰などの地神信仰の吸収を通じて民衆への布教を確固たるものにしたものといえよう。
かくして備前を中心に地方に教線が著しく伸張している。
かかる動きのなかで日芳は永正一六年(一五一九)には妙本寺の寺名を妙顕寺の旧名に復している。
妙顕寺を中心にした四条門流の活発な動きに対して叡山を中心とする既成教団の反発は激しく、大永四年(一五二四)には再び法華宗妙顕寺などの破却を足利義晴に要求し強訴している。
この動きは天文五年(一五三六)三月の天文法華の乱となって表面化し激化頂点に達する。
いわゆる天文法難である。
この戦いは妙顕寺を中心にした二十一箇本寺に対して、叡山はもとより三井寺、南都の諸大寺の勢力、及び一向一揆も加わるという法華宗対全他宗派との対決という図式においてなされた。
法華宗は敗戦し京都市中を逃れた。
同年一〇月七日に足利政権は正式に法華宗の洛外追放を命じている。
法華宗の多くは堺に避難している。
天文一一年に法華宗は勅免にて洛中再興を許されることとなったが、妙顕寺の場合、創建以来の法敵関係にあった叡山との和解が成立せず、やっと同一七年に叡山の承諾をとり再興されることとなった。
だが、妙顕寺の再建は簡単でなく、天文二二年-永禄七年(一五六四)の十一年余りは無住という状態が続いたことからも窺われよう。
元亀二年(一五七一)に信長により、法敵の叡山焼打ちが起る内に、妙顕寺も復興され、鶏冠井に興隆寺、北岩倉に金竜寺が創建され、京都内外に再び教線を伸張し始めた。
しかし天正七年(一五七九)には信長は法華宗勢力の弾圧を意図して浄土宗との法論を企画実施している。
いわゆる安土宗論、安土法難である。
妙顕寺内の法音院も当事者の一人として処分されている。
また天正一二年九月には信長政権を引継いだ豊臣秀吉により京都市中の区画整理によって敷地交換と移転を命じられ現在の地に移っている。
更に文禄四年(一五九五)に大仏殿千僧供養への出座をめぐって表面化した宗内での不受不施の論争が起ったなかに、妙顕寺も内紛に無縁ではありえないことは当然である。
慶長一三年(一六〇八)には家康政権から身延山久遠寺、池上本門寺と共に「念仏無間の語は経文に典拠なし」との詫証文提出を強要されている。
このような動きのなかで元和元年(一六一五)に日饒が一三世に就任している。
日饒は尾形氏一門出身で一門は染織に雄飛し、一族には尾形光琳を出している。
日饒は受不施派に属し、身延の日乾、日重らに同調している。
また日饒は加賀(石川県)前田氏の妾室寿福院を外護者に迎え境内の堂社整備に尽力している。
朱印地一石を下付されている。
妙顕寺は不受不施論争をきっかけに身延派に属するようになる。
だが地方に展開する末寺は離反するものが多く、幕末に至るまで末寺に不受不施の異議なき旨の誓詞をとり続け、その統制に苦心している。
二〇世日耀代の元禄五年(一六九二)には五〇〇余ヵ寺が書き上げられている。
明治初年(一八六八)には三三五ヵ寺余りが書き上げられ、把握末寺が減少していることが指摘でき離反が続いたことを明示している。
末寺の分布は京都周辺に七〇ヵ寺余り、備前岡山を中心に七〇ヵ寺余り、安芸に三六ヵ寺余り、越前・若狭(福井県)を中心の北陸道に八○余ヵ寺が集中的にみえ、ほぼ全国に広がっている。
北陸方面は日像開山、備前(岡山県)や安芸(広島県)の山陽道方面は大覚開山と伝えるものが多い。
また日耀の代に七堂伽藍の配置が完成している。
しかし天明八年(一七八八)の大火により全山焼失をうけたが、三年後の寛政三年(一七九一)には客殿、庫裡、鐘楼を再建し、享和元年(一八〇一)には祖師堂を再建している。
この再建浄財は大坂・堺の商人を中心にした講中の強力な協力によって捻出されている。
大坂・堺の講中はとくに境内神の鬼子母神に対する信仰が厚く、妙顕寺内には鬼子母神を祈祷本尊とする修法師が常住して、講中の現世利益の要求に応えていたようである。
更に本堂の再建は天保元年(一八三〇)から始まり嘉永二年(一八四九)までかかったが、ここに今日の伽藍完成をみている。
《辻善之助『日本仏教史』中世篇・近世篇一、影山堯雄『日蓮教団史概説』、『日蓮教団全史』上、渡辺知水『大覚』、山田日真『日宗龍華年表』、『日蓮辞典』「妙顕寺」の項、『国史大辞典』一三巻「妙顕寺(京都)」の項》
(坂本勝成)
図版