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本門事一念三千義

ほんもんじいちねんさんぜんぎ #3497

本門事一念三千義

ほんもんじいちねんさんぜんぎ

上・下二冊。
観如院日透(一六五三-一七一七)著。
享保二年(一七一七)三月三日に著した義書。
明和五年(一七六八)板行。
日蓮学において一念三千論は題目受持の信行を裏づける重要教義であるが、日蓮宗学史上、それに関して独立した論著は少ない。
わずかに優陀那日輝(一八〇〇-五九)の『一念三千論』を見るほかには、本書を数える程である。
そうしたところから本書は学史上に大きな意味をもつと考えられる。
本書の著者、観如院日透は京都に生れ、九歳のとき妙満寺派(現在の顕本法華宗)の本行院日孝について出家得度した。
その後、勝劣派の学校である小栗栖檀林を経て、一致派の小西檀林から飯高檀林に進んで天台学を研鑽し、『十不二門指要抄草』五巻を著すほどの学匠となった。
日透の関心は次第に内観的なものをめざして行った。
ち、日蓮宗において天台の教義書の研究が盛んではあるが、『法華玄義』『法華文句』の関係の註釈書は多くつくられているため、初心者も勉強する手がかりをつかむことができる。
それに対して、『摩訶止観』の関係の註釈書には優れたものがでていないと日透はいっている。
そこで日透はそれらの註釈を試みると共に、日蓮宗義について内観的な面を追求する義学を興そうとしたのである(『本門事一念三千義』下巻末)。
日透が本書とともに『寿量顕本義(じゅりょうけんほんぎ)』を著したのは、このような意図があってのことであるという。
従って本書において一念三千論が論ぜられるのは、仏道修行者の内観の追求ということが直接的に問題とされている観があり、日蓮聖人の『観心本尊抄』に見られるような、一念三千の構造的世界の追求や、題目との合一などの検索にはさほど眼が向けられていない。
むしろ題目を信受する当処(その場所)で、いかに一念三千の世界に沈潜することがきるか、内観の世界を充実してとらえることができるかということが主要な課題となっているといえよう。
今、望月歓厚日蓮宗学説史』の所論に従えば、修行論と所行体論とについてその主張が要約される。
まず修行論についてみると、
(1)正助二行を立てて唱題を正行とし、観と読誦を助行とする。
ただし前述したように、日透の関心は内観の追求にあり、末法の下根下機を中心とするところから、そのような論述となるのであり、ある意味では唱題の意を徹底した観心を主張している。そこで、
(2)末法の機根に上根・下根があるが、上根は唱題・観心の併修、下根は唱題専修を説く。
(3)次に唱題と観との関係が問題となる。
日透は先師が唱題がそのまま観(観心)であるというのは誤りであるとする(『当家本尊義』末、『本門事一念三千義』上一一)。
つまり唱題の正行に観の功能(はたらき)を具えているのだから、必ず観をしなければならないことはないけれども、機根の勝れたものは、観をすることによって唱題を徹底することができるとするものである。
(4)そのように古来、口易行がそのまま事行であるとしたのに対して、それを徹底して観ずるのを事観としており、その意味からすれば、事行も本門の事具の行であって、安易に易行というべきではないとしている。
(5)日透は一念三千を本理とし、その根本は十界互具にあるとする。
すべての宗義はここに基づくといい、極論すれば大曼荼羅に向って礼拝するとき、唱題が伴わなくとも自ら修観のはたらきがよびさまされて、十界互具の妙用(妙なるはたらき)が自然に顕れるのだと論じている(『本門事一念三千義』下二五)。
このような傾向は、ややもすれば能行を軽視して所行を重んずることとなり、智慧を重視して信心が軽視せられるということになりかねない危険もないではない。
次いで所行の体についてみると、日透の「がままの妙法」の語るところが、その実相論であり、また本仏論である。
十界互具一念三千とは、要するに事相(じそう)が差別の相の背後に互具融通(ごぐゆうづう)しているのであって、それこそが仏陀の到達された実相(じっそう)の世界である。
迹門諸法実相に約して十界互具を明かすとは、凡夫の理性にそれを本具していることを明かしてこの事具を示すところであり、本門が久遠実成に約して十界互具を明かすとは、久遠実成釈尊の知見の世界に即して、「のままに」の互具を示しているものとする。
つまり、仏陀久遠実成が示されるとは、仏陀の無始本覚が顕されることであり、そうすれば一切法界は仏知見の世界となり、十界はことごとく仏陀証得の内容となるのであるから、たとえ迷凡のものはそのような実相を知らなくても、無始本有、事々互具の仏所証の世界にあること明らかである。
そのような世界にあることを信じ認識することを「がままの妙法」とよぶのである。
「返ス返ス仏果所証ノ如実ノ智見ニハ十界依正同一仏体ナレバ、吾等ガ色心モ本覚無作ノ三身ナル旨ヲ慥ニ存ジ定ムベシ」(同上一〇)等と述べられるように、ここに日透の本法観・本仏観が示されるのであり、であるから顕本久遠(釈尊の久遠実成を明らかにしてその仏格を尋ねること)は、今述べた事具を顕す能顕の方法であって、所顕の世界に本法事具三千ということになるのである。

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