日透(観如院)
日透(観如院)
にっとう
(一六五三-一七一七)
字は堯辮、観如院と号す。
江戸中期の学僧。
承応二年、京都に生まれる。
寛文元年(一六六一)九歳で伯父に当る妙満寺派寂光寺の本行日孝の許で出家。
一八歳で小栗栖檀林に入り在檀九年、四明学に没頭する。
二六歳にて両親を失い、翌年関東に負笈して小西檀林に学ぶこと前後七年、三四歳の時飯高檀林に移り『止観』の最終階梯に進む。
この飯高在檀中に平賀本土寺歴代良静日令と師弟の縁を結び、初発心の師什門の日孝が江戸に下ってしばしば帰還をすすめたにもかかわらず、ついに一致派に転じて飯高に留まった。
元禄一二年(一六九九)五七歳。
『玄義』の講主となり、翌年飯高を退いて韮山本立寺に晋み、志すところあって身延西谷檀林の化主を兼ね、晩年会津徳川侯の招きにより若松の浄光寺の主となる。
正徳四年(一七一四)六三歳、浄光寺を退職し庵を結んで閑居、専ら著述に励む。
享保二年入寂の年、『寿量顕本義』『当家本尊義』『事観義』(本門事一念三千義)の宗学史上の三名著を完成し、三月二六日化寂す。六五歳。
日透は他派から本宗に入って、本宗の教学体系化に大きな道を開いたが、その宗義に関する著書は皆最晩年に執筆されたもので、生涯の大部分は当時の日蓮宗檀林の特徴である天台教学、ことに四明知礼を中心とする趙宋天台の研究に費されていた。
有名なものには『指要抄草記』五巻などがある。
師は小西において興正日遶・一妙日堯の学系を継ぎ、飯高では元政の弟子慈忍日孝の会下にあった。
天台学研究は安土宗論以降の近世日蓮宗教団の潮流であったが、特に一致派の諸檀林では不受不施や折伏主義の弊害を恐れた日重・日乾・日遠らの指導者の意向から発展したものである。
日透が学んだ小西檀林ではすでに日遠の法孫要玄日寛が不受党を一掃して日遠の摂受思想を鼓吹していた時であり、その弟子一妙日堯は有名な摂受主義者で、日透が学んでいた時に『文句』を講じていた。
飯高では元政の内省的思想の洗礼を受けている。
後の日透の宗学が日重門下の教学を少なからず継承していることは確かであろう。
師が宗学論著執筆を志したのは六三歳の時、彼の旧派什門の日演の『自鏡録』を読んでからのことであるとされている(執行海秀『日蓮宗教学史』)。
什門と何らかの確執があったことは後に什門の合掌日受が日透の『事観義』の一々を破して『如実事観録』を著したことからも想像できる。
日透の宗学上の功績は従来莫然と論じられてきた教学上の諸問題を、寿量顕本義、当家本尊義、本門事一念三千義の論目の下に体系化して、いわゆる近世の宗学復興の先駆となったことであろう。
日透の業績の上に一妙日導の『祖書綱要』が成り、優陀那日輝の宗学大成が果されたのである。
彼の教学を概観するに、日透の顕本論は「始成即久成」にあり、天台は始成の仏と久成の仏を別個の存在というに対し、当家は始本同体、始成のままに本仏を開顕するという、そして本仏は絶対一仏で尽十方の諸仏皆分身となす。
この始即本の事成を強調した顕本論は宗学上の卓見であるが、結果としての日透の顕本論は理体論的な趣きをもっている。それは彼の一念三千論からくるのであろう。
日透の事観義とは有名な「事がままの妙法」論である。
彼は十界互具の一念三千とは事相の互具融通であり、これを理性に約せず事のままに事の互具を観ずるを本門の事の一念三千とする。
「本門は直ちに事がままにして具を観ずる故に、事の一念三千と名づく」(『事観義』上一)。
この事がままの妙法を法体とするが故にその顕本論本仏論は理体論になりやすい。
更に本尊論は日遠の説を継いで人法並存を主張し、帰結するところは観心の本尊大曼荼羅である。
これらの思想は後の日導・日輝によって修正され更に一層深められ、近世日蓮宗学の骨格となっていったのである。
《望月歓厚『日蓮宗学説史』、執行海秀『日蓮宗教学史』、渡辺宝陽『日蓮宗信行論の研究』、『日本仏教人名辞典』「日透」の項》