日祐(中山法華経寺・浄行院)
日祐(中山法華経寺・浄行院)
にちゆう
(一二九八-一三七四)
院号を浄行院、号を大輔公と称し、中山法華経寺第三世貫首として活躍、当寺の基礎を固めた。
門下に俊秀が多く、教線の拡張にも大きな功績を残している。
日祐は永仁六年に生まれたが、その出自は明らかでない。事蹟から推測すると、恐らく千葉胤貞一族の出身と思われる。早くから胤貞の猶子(義子)として中山法華経寺に出家し、日高の弟子となる。やがて正和三年(一三一四)に日高が没すると、日高の譲状や置文の旨にまかせて、中山法華経寺第三世の法灯を継承し貫首となる。その時、日祐は若冠一七歳であった。
義父の千葉胤貞は日高の代に引続いて俗別当の地位にあり、世俗的な面で日祐を援ける体制をとった。また真間弘法寺の日樹とは、改めて盟約を確認し、門下僧侶の統率と宗門の伝道活動への一歩を踏みだしたのである。
千葉胤貞は中山法華経寺(正確には本妙寺と法華寺)の貫首となった日祐に対して千田庄・八幡庄・臼井庄(以上下総国)・小城郡(肥前国)などに広く散在する自分の所領の中から、広大な田畠を寺領として寄進した。これらの寺領を総計すると四五町歩にものぼり、ここに寺院存立の経済的な基盤を確立することができたのである。
日祐の中山法華経寺における活動は、実に目覚ましいもので、その具体的な有様はかれ自身が記録した『一期所修善根記録』に述べられている。この記録は日祐が貫首に就任してから一二年目の、嘉暦元年(一三二六)から没年の応安七年(一三七四)五月一三日朝までの四八年間にわたる仏事を書き留めたものである。その内容は「法華転読事」「精舎勧進造営並結縁事」「妙法蓮華経書写事」「京上四ヶ度」「御堂本尊等唱導勤仕事」「身延山参詣事」などの項からなっている。
まず日祐は嘉暦元年から入滅の六月前まで、法華経一万二七九八部、法華経の開経二六一一巻、結経二六〇九巻を転読している。
妙法蓮華経を毎日転読するというのが、中山法華経寺の貫首としての務めであった。また折を得ては御堂に参詣して曼荼羅本尊や法華経を書写している。
これらの作善を修する中で、師の日高や千葉胤貞、悲母を始めとする追善供養に資し、自分自身の後生菩提を祈念した。
中山法華経寺の教団体制を整えるにあたっては、本寺である法華寺と本妙寺の寺観を整えることが当面の急務であった。
そこで日祐は本妙寺と法華寺の仏堂と御影堂を再建立し、その他の諸堂にも修理を施した。
新築の仏殿には新しく仏像を造立して安置すべく、釈迦・多宝の木像と四菩薩の木像を刻ませた。また御影堂には日蓮聖人の御影を安置し、先師日高の塔頭にはその姿を造立して安置した。
これらの大掛りな造営工事は、千葉胤貞流一族と六浦妙法ら商人の実力を背景としてなされたものである。
妙法蓮華経の写経も、日祐は一生を通じてたびたび行った、その目的は木像造立の折の胎内納入、つまり仏体への入魂のためと、先亡御滅の精霊に回向し、その菩提を弔うためであった。
そのほかに千葉胤貞らの追善のために「卒塔婆の経」をたびたび書写している。
当時の日蓮宗僧侶の例にならって、日祐は四度ほど上洛している。
第一回目は文保元年(一三一七)二月一九日、中山法華経寺貫首就任を記念して上京した。
第二回目は正中元年(一三二四)四月、二七歳の時に聖教を書写するために上洛した。
第三回は建武元年(一三三四)七月四日に、真間弘法寺の日樹と共に仏法のことについて訴訟を行おうとして上洛し、数日間捕われの身となっている。
第四回目も将軍足利尊氏に「宗門訴訟」を行うために暦応三年(一三四〇)一〇月三日に上洛を遂げている。
日祐は「宗門訴訟」によって聖人からの正統を体験的に主張しようとしたのである。
日祐の時代になると、末寺の伽藍もようやく整い始めた。
そこでかれは弘法寺の仏堂や御影堂の供養に臨んで導師を勤めたのを始め、広く末寺寺院の堂供養会に臨んでいる。またこれらの仏堂に安置する釈迦多宝二尊像や、聖人の御影の開眼に当っても、自ら唱導師として参加している。これによって本寺と有力末寺との関係は、より一層緊密化していったのである。
聖人の墓所が営まれる身延山へも、日祐は毎年のようにたゆみなく参詣した。
しかもかれに伴われて登山した人数は、総じて三〇〇人にものぼっている。聖人に対する日祐の思慕の情が、大勢の信者を率いての身延の墓所参詣の形をとって具体的に打ち出された。このことを契機として、日祐と身延山三世貫首日進との親交はきわめて深くなっていった。
『一期所修善根記録』にみる日祐のイメージは、極めて行動的な宗教活動によって特徴づけられる。
日祐のこのような行動を裏打ちする宗教意識は、日蓮・日常・日高ら先師に対する報恩という観念であり、千葉胤貞を始めとする先亡後滅の精霊に対する追善の観念であった。
一方、日祐は聖人の真蹟遺文や聖教・書籍などの蒐集に情熱を傾け、康永三年(一三四四)二月八日には『本尊聖教録』(通称「祐師目録」)という目録を作成している。
その内容は日常の『常修院本尊聖教事』記載の、いわゆる法華寺分の全部と本妙寺分、即ち日高伝来のもの、及び日祐自身の蒐集によるものすべてを合せた本尊類・真蹟遺文・写本遺文・仏教関係書・和漢書及び仏具等を含む総合目録である。
一方、日祐は『本尊聖教録』を作成する以前に、中山法華経寺の文書目録たる『文書等事』を康安元年(一三六一)九月一七日に完成している。
日祐がこのように『本尊聖教録』と『文書目録』とを作成した意図は、千葉氏の外護による中山法華経寺の教団体制の確立の一環をなすものに外ならない。
応安七年(一三七四)四月一五日より七日間、七七歳の齢を重ねた日祐は、その命旦夕に迫ったことを悟ったのであろうか、本妙寺に参籠して「臨終正念後生善処 自他円満 無上菩提」のために、妙法蓮華経一三部を転読した。
そして五月一三日病に臥し、同月一九日に世を去ったのである。 (中尾堯)
《宮崎英修『日蓮宗の人びと』、『日本仏教人名辞典』「日祐」の項、『国史大辞典』一一巻「日祐」の項》