日樹(長遠院)
日樹(長遠院)
にちじゅ
(一五七四-一六三一)
長遠院と号す。
池上・比企両山一六世(自らは一五世と記す)。
備中(岡山県)黒崎で生まれ。幼時、両山一四世日詔について出家、飯高檀林、中村檀林で学業を重ねた。
心性院日遠が飯高第三世化主に迎えられ、恵雲院日円が去って中村檀林を開いたとき、日詔と共に日円の学徳を慕って中村に転じた。
のち同檀五世の化主に累進、やがて飯高七世化主。当代の学匠とうたわれる。
日樹の飯高、中村両檀林研鑽の時代は慶長・元和の激動期で、豊臣氏が滅び、徳川氏の天下を目前としていた。
宗門においても安土宗論以後、受・不受という形で天台偏向の柔軟派と祖本主義の強硬派の対立が続いた。
文禄四年(一五九五)九月には、秀吉の方広寺大仏の千僧供養出仕・不出仕の問題に端を発する受派本満寺日重と不受派妙覚寺日奥の京都両本山を中心とする対立抗争が激化する。
結局日奥の妙覚寺出寺、次いで慶長四年(一五九九)一一月二三日に家康の命で両者が大阪城内で対論、自説をまげない日奥は対馬に流罪となり、不受不施義は邪義という形に追いやられる。
もともとこの不受不施義は、池上を中心とする関東学派の聖人中心主義から出発する思想で、〈池上日現-妙覚寺日典-日奥〉という系譜で受け継がれ、〈妙覚寺日典-池上日惺-日尊-日樹〉の系譜も同系であり、日樹は自ら日奥に学問的に師事しており、この頃の関東諸山はほとんどこの系流をくむ不受不施派が大勢を占めていた。
ところが受派の〈本満寺日重-身延日乾-日遠〉を中心とする関西学派は、受・不受の係争を通じて体制側と結託し、身延山を完全に手中に入れ、ここを祖山として宗門の統一をはかり、不受論者を圧迫する姿勢を示した。
日友が心性院日遠に師礼をとって、両山一五世になったことも、身延側が両山支配を志向する一証左といえよう。
しかし日樹が屈請されて両山一六世に迎えられた元和五年(一六一九)六月前後の関東の形勢は、明らかに不受側が優勢であった。
その理由は両山・小湊・平賀・中山・小西・碑文谷などの大山とその末寺がほとんど強硬な不受派によって支配されていたことと、信徒側も不受義を信奉し、もしも受側になれば参詣をやめるというほど強硬な信仰組織を有していたことによる。
かつて池上日詔の著した『観心記』を日遠が『色心不二門義』で論破したが、日樹は元和九年に『留意要』三巻をもって反駁し、四明正統論を主張した。
同年平賀本土寺日弘と台当の異目を談じ、日弘は日樹を師とする盟約を結ぶ。
やがて教学的にも日樹の不受論は確立してきたのである。
元和五年、日樹が池上に入山する直前に本門寺の客殿・方丈・庫裡・月牌堂などが炎上した。
日樹は入山後鋭意復興に努め、寺観を一新した。
元和八年八月二三日には、加賀前田利家の御側室寿福院の資助で比企谷妙本寺の客殿も再建できた。
しかし不運にも寛永五年(一六二八)に池上の本院と本堂を焼失、再び復興事業に身をゆだね、翌年一一月に再建の浄業をみるに至る。
この間、寛永三年九月二二日から二六日まで、徳川秀忠夫人崇源院の中陰追善のため、千僧供養が芝の増上寺で施行されることになった。
各宗の僧侶に諷経の命令が出され、本宗の身延側は出仕したが、池上側の池上・中山・小湊・小西・碑文谷などの各寺は不受の制法を主張して出仕を拒否した。
このとき幕府は不受の古制を容認して、何らの咎めもなかったことは注目されよう。
しかし、その後池上日樹、中山日賢が中心となって身延側の行為は聖人の制法をおかす謗法であると執拗に論難を加えたので、幕府も放置するわけにはいかず、寛永七年二月に江戸城内で身延と池上を対論させることとなった。
これを身池対論とよぶ。
判者は喜多院天海、南禅寺本光、月山寺弁海、身延側は日乾、日遠、日暹の身延歴代と藻原日東、玉沢日遵、鶏冠井心了、池上側は池上日樹、中山日賢らが出座した。
その結果、体制側と協調的な身延側は、とくに家康の側室養珠院お万の方が日遠の篤信者であったことなどもあって、幕府に擁護された形で勝利を得た。
敗者池上側は無惨なもので、日樹は同年四月二日に信州飯田に流罪ときまり、池上の歴代からも除歴となった。
ちなみに中山日賢は三河に、平賀日弘は伊豆の戸田に、小西日領は奥州相馬に、碑文谷日進は信州(長野県)上田にそれぞれ配流となり、このときすでに遷化していた日奥まで死後の流罪となり、遺骨が対馬に移された。
また小湊日税はこれに悲懐を感じ自刃して果てた。
日樹配流後の池上本門寺は幕命で心性院日遠に与えられた。
同年四月二二日に晋山したが、寺中は険悪な空気が流れ、養珠院さし向けの護衛の武士数百人が抜刀のまま池上の山内に誘導したと伝えられる。
このとき池上の塔頭に住していた日樹の法弟一如院日僧、仙国院日仙、華蔵院日由の三名は自殺し、他の数名は出寺して姿をくらまし法義を守った。
日遠は両山に入ると直ちに本門寺と妙本寺の支院塔頭、末寺の諸僧から日樹の邪義を認め、国主の布施供養を受けることを誓う連判の起請文を出させた。
ここに至って日重・日乾・日遠三師を中心とする身延側の一宗支配制が確立の方向を示すと共に、池上・比企両山も受派の体制のなかに編入された。
日樹は脇坂淡路守安元にお預けの身となり、同年四月五日には江戸を発ち脇坂氏の領地信州飯田に向った。
岡山県の法泉寺に残る過去帳には信州伊那の田中八郎左衛門宅に預けられたと記されているが、この人物については明らかではない。
謫居に移って間もなく中風病となり、翌寛永八年五月一九日、五九歳で流地に示寂した。
著書は『留意要』三巻を始め『不受不施言上』『宗旨之立義不受不施之事』ほか多くの消息が残る。
《『本化別頭仏祖統紀』、『日蓮教団全史』上、宮崎英修『不受不施派の源流と展開』、同『日蓮宗徒群像』、石川存静『池上本門寺史管見』、山田居麓『日樹上人の研究』、『日本仏教人名辞典』「日樹」の項、『国史大辞典』一一巻「日樹」の項》
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