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弘法寺(千葉県市川市真間)

ぐほうじ #2052

弘法寺(千葉県市川市真間)

ぐほうじ

日蓮宗由緒寺院の一つ。 千葉県市川市に所在。 真山と号する。
平九年(七三七)行基がこの地に立ち寄った折、手児奈(てこな)姫の菩提を弔うため一宇を建てて求法寺としたことに始まる。
のちに空海が伽藍を構えて弘法寺と改称したという。
建治元年(一二七五)住持だった了性法印と富木常忍とのに問答(真問答)があり、日頂が対決の場に立った。 その結果、日頂が法論に勝利したため、弘法寺は日頂を開山として改宗し法華経の道場となった。
弘法寺はもともと「真堂」といったと思われ、それは日蓮聖人檀越として有名な富木常忍の「御所領の堂」であった。
この堂が最初に現れるのは日蓮聖人の『真間釈迦仏供養逐状』(建治三年=一二七七=九月二六日、但し『昭和定本日蓮聖人遺文』では文永七年説をとっている)においてである。 この遺文によると、富木常忍の「御所領の堂」に建立された仏堂に、かねてから大黒天を、いま新たに釈迦仏を開眼し安置することによって現世安隠後生処の祈りが切実に捧げられたことを窺うことができる。
また釈迦像が安置された「御所領の堂」は後の真間弘法寺で、この地は富木常忍の所領であった。
像の開眼を行ったのは日蓮聖人の弟子として将来を嘱望されていた伊予房日頂で、富木常忍を始めとする下総の檀越たちの指導的役割を果していた。 恐らく真堂には日頂が居住して、身延に隠栖する日蓮聖人と下総の檀越たちとのをとり結んでいたに違いない。
しかしなから日蓮聖人の入滅後しばらくして、日頂は富木常忍との間が思わしくなくなり、ついに中山を離れて富士に赴く。 すると常忍は自ら出家して名を日常と改め、その邸内持仏堂を改めて法華寺と称するようになった。
この、従来から「御所領の堂」として富木常忍の管理下にあった真間堂は、今度は法華寺と密接不可分な関係を保ちながら、八幡庄における日蓮宗の拠点として確立されることになった。 そして日常は両寺の貫首職を兼帯し、及川宗秀がその俗別当となって寺院の運営面に携わったのである。
法華寺・弘法寺両寺の貫首となって、この地の団の指導者としての地位に立った日常は、永仁七年(一二九九)三月四日に置文を定め、弘法寺を兵部阿闍梨(日陽)に付属し、この両寺は日常存生の如き思いをなして講会以下のを勤めることを遺言している。
ついで第二世の日高は正和三年(一三一四)四月二六日の置文で、弘法寺本尊聖教を弁公に依嘱している。
ただ当の弘法寺については、記録の関係から相承関係などは必ずしも明確ではない。
やがて弘法寺に日樹が住持し、中山法華経寺に日祐が晋山すると、両者のは極めて円滑に行くようになる。 日祐は正和四年四月一二日に書状を認めて、日祐に違背することのないよう起請文を寄せた日樹の志を賞し、自らも「うしろくらくはらくろなるあるましく候」と誓っている。
これから後、両者の親交は深まり千葉胤貞の子胤継の外護を受けて、相共に宗教活動に挺身した。 とくに建武元年(一三三四)七月四日、日樹は日祐と共に仏法のことについて皇に奏上しようと上洛した。
このたずさえた「申状」の草案は中山法華経寺文書の中に伝わり、その冒頭に「日蓮聖人門弟日祐日樹等謹言」と記している。
京都に着いた二人は八月三日に検非違使別当藤房卿の亭に入ってこの申状を提出した。 ところが不快の意を示され、そのまま捕えられて壱岐守に預けられ、三日後の八月五日に赦免されている。
また正和四年正月八日、日樹は真弘法寺堂供養に当って日祐を唱導師として招請した。 日祐は「浅学短才之上、年齢未満之、数かの辞退に及ん」だが、ついに承諾して唱導師を勤めた。
このほか元享三年(一三二三)二月八日の弘法寺仏堂供養、建武元年(一三三四)一二月二六日の弘法寺御影堂供養にも日樹は日祐を唱導師として招いている。
日祐は日樹と極めて親しい柄にあったから、弘法寺の開堂供養には積極的にこの役割を買ってでたのであろう。 中山法華経寺が日祐によって基礎づくりがなされるのと同じ期に、真弘法寺もまた寺観の整備に努力を傾けていたことが窺われる。
このような情況を背景に日樹は文和二年(一三五三)七月二七日に置文を書いた。 この文言の中で弘法寺は法華寺・本妙寺(法華経寺)と三寺一寺の思いをなし、とりわけ法華寺を本寺となすべきことを定めている。
しかしながら弘法寺が中山法華経寺とこのように深いつながりを持っていたのは日樹の頃までで、日宗の代になると、とかくすると分立の傾向を生じるようになる。 特に康暦二年(一三八〇)、日什が弘法寺に入って学頭となり、後継者日満の学匠として活躍を始めるとこの動きは拍車をかけられたようである。
やがて日什が真を去って一門派を創始し、日満が貫首職を継承すると、明徳元年(一三九〇)に法服着不着問題を引起した。 ちこの時に行われた埴谷妙宣寺の開堂式に当り、中山法華経寺の貫主が七条の法服を着用したことが正しいかどうかということである。 貫首の日満は法服着用は謗法衣であるから不可であるという身延の主張を背景に、これを弘通の方便として容認する中山法華経寺日尊と対決したが、有利に運ばなかった。 そこで中山からの離脱を宣言したところ、逆に日尊から鎌倉公方の足利氏満に「代々の先師置文に背き、門徒を引き分け、師匠に背くの条希代の所行也」と訴えられた。 この結果、下総守護千葉満胤を通じて、弘法寺の寺物一切を本妙寺(法華経寺)へ渡し、その支配を受けることになり、分立の可能を失ってしまったのである。
この後、弘法寺は中山法華経寺とさまざまな対応関係を示し寺内にも多くの困難を抱え、真間門流として近世を迎える。 この、寺号を根本寺と称したこともある。
江戸代の初期になると貫首日感が弘法寺の独立運動を進め、法華経寺と同格であることを主張すべく寺歴を研究し、お万の方を通じて幕府にも働きかけた。
やがて寛永一〇年(一六三三)の諸宗寺院本末帳が作製されると、末寺三二ヵ寺を従えた弘法寺は「身延之帳」の中で法華経寺の次に記載され、寺領三〇石が与えられている。 ち弘法寺は寛永の末寺帳において初めて独立の本山としての地位を認められたのである。
弘法寺は下総台地の縁辺に位し風光明眉であることから、古来文人墨客が杖を引いて訪れる名所である。
日蓮聖人の『真間釈迦仏逐状』の故事によって大黒天信仰で子の日はにぎわう。
また『万葉集』の東歌にちなむ手古奈姫をまつり、女信者を多く集めている。
近年までは日蓮宗布教研修所を開設されて宗門へも大きな貢献を果した(現在は平賀本土寺開催)。
《『日蓮辞典』「弘法寺」の項、『日蓮聖人典』(雄山閣)「千葉」の項》
(中尾堯)

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